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神秘冷戦 第1章

 マシュマロで感想を送る

 真夜中。水の都と呼ばれた街のある貴族の家。
「あぁ、分かってる。首尾は順調さ。ひひっ。そんなことより約束の見返りの件だが……」
 ワインを片手に下衆な笑いを浮かべる男が一人。
 男の思考と、そして五感はこの取引の末に得られるであろう未来に広がる自身の地位と栄光に向けられており、ゆえに気付かない。
 この部屋を守っていたはずの四人の護衛。それが今や一人としてこの部屋にいないことに。
「ふぅ。これで俺の地位は安泰だ」
 取引がうまくまとまったらしく上機嫌の男がワインを飲み干し、お代わりを期待してワインを揺らす。
 そこでようやく気付く。
「おい、どうした、新しいワインを持ってこい」
 そうして起き上がった直後、首筋にひんやりとした感覚が当たる。
「安心した。もし酔いで尋問どころではなければ困っていたところだった」
 イタリア訛りの英語であった。
「な、何者だ!? 何が狙いだ!?」
「あまり大きな声を出さないで、喉が膨れたら、それだけ刃が食い込む。ノートパソコンの認証を解除して」
「誰が……」
「二度は言わない」
 ひんやりした感覚、その先端が体に食い込む。一瞬、熱いと感じるそれがすぐに痛みだと分かる。
 ナイフではない、妙に小さく短い武器のようだ。暗器の類か。
「あ、アサシン?」
「ハシシ中毒者と一緒にするな。さぁ、ノートパソコンの認証を」
「なら、インクィジターか。ふ、ふざけるな。貴様らの手口からして、どの道殺す気だろうが! おい! だ……」
 気道を一閃、声を封じる。
「残念だな。大人しく協力していれば、苦しむことなく神の国に至れただろうに」
 首を押さえ苦しむ男を尻目にノートパソコンを回収する。
 生体認証付きのこのシステムを果たして破ることができるのか、確証はないが、増援を呼ばれて殺害とデータ回収が困難になるよりは、確実に殺害することを優先するべし、と暗殺者は判断した。
 ――インクィジターなら、どの道殺す気、か。正体バレバレなのは暗殺者としてどうなんだろうな
「どうしましたか!」
「まず」
 流石に男が大声を出しすぎていたらしい。暗殺者は直ちにベランダの淵に上がり、そのまま飛び降りる。
 飛び降りた先は水。タイミングよくやってきたゴンドラと呼ばれる手漕ぎボートに着地する。
「回収ありがとう、ナイスなタイミングだった」
「いえ、私は指示された通りにゴンドラを漕いだだけですから」
 男がフードを外して息をつく。
「《傲慢プライド》様、次の指示は?」
 漕ぎ手の女性が尋ねる。
「本当ならこの後は隠れ家セーフハウスに戻ってこのノートパソコンのデータを本部に転送する手筈だったが……」
 残念ながら生体認証を抜けなかったため、そうはならなかった。
「まぁ、いずれにせよ今後の動きを考えるため、隠れ家に戻る事だけは確実だな」
「承知しました。このまま隠れ家まで向かいましょう」
 《傲慢》と呼ばれた男の言葉に従う女性、その胸には十字架を称えるロザリオが下がっていた。

 

 彼らはインクィジターと呼ばれる唯一神を讃える三つの宗教、その第二の教えに殉じる者たちを裏で支配する者たち、その配下。
 男は咎人。第二の教えに殉じるためそれを妨げる者たちを密かに始末する執行者エクスキューショナーである。
 女はテンプル騎士団。インクィジターの下部組織として密かにヨーロッパの治安を守る正義の騎士であり、時としてる咎人の任務の支援を行う。

 

「つまり任務は失敗した、と?」
「いえ、パソコン自体は回収しましたし、ターゲットも神の国へ送りました」
「しかし、パソコンの中のデータは取得できず、であろう?」
「……それは……はい」
「《傲慢》よ、まだ若いゆえ分かっておらんようだから言っておくが。汝ら咎人の仕事は、我らが授けた神託を寸分違わず遂行すること、ただそれのみだ。他は何も要らぬ」
「はっ。理解しております」
「しておらぬ。我らが汝に授けた神託は、〝ターゲットにコンピュータの生体認証を解除させたのち、コンピュータから情報を抜き取り、離脱すること。ターゲットを含む目撃者は全員始末すること〟。寸分違わぬ通りに授けたはず」
「はい、確かに」
「ならば、失敗であろう。汝は情報を抜き取れてはいない。にも関わらず、我々に反論しようとは。自らが咎人である、その意味をよく考え、弁える事だな」
「はっ、申し訳ありません」
「では、今後のことをしばし相談した後、神託を授ける。その場で待機せよ」
「はっ」
 通信が解除される。ずっと跪いていた《傲慢》が立ち上がる。
「武器の手入れをしてくる。連絡が入ったら呼んでくれ」
「承知しました」


 武器整備のための部屋に入り、ポーチから自らの暗器を取り出す。
 それは釘のような形をした暗器であった。
 咎人が用いる暗器は象徴武器シンボリック・ウェポンと呼ばれる全て聖遺物を始めとする神と関係のある品を模したものを使っている。
 これは過去に神の子を突き刺しその血を浴びたとされる聖釘を模した武器。
 とはいえ釘では相手を刺すか、投擲することしかできないため、先端が平たく、カッターナイフの刃のように加工されている。
 これを指と指の間に挟み、爪のように使うことから、ネイルと呼ばれている。

 

 《傲慢》は今回の潜入で使ったネイルを一つ一つ布で拭い、血を落としていく。
 その後は、ネイルを指の上に、交差するように乗せる。
 ほとんどのネイルは指の上で綺麗に揺れ、静止したが、いくつかのネイルはまともに乗る事なく落下する。
 落下したネイルを拾い、象徴武器用の砥石で刃を研ぐ。
 ある程度研いだら、金属粉を落として指の上に乗せる。
 これを繰り返し、全てのネイルが指の上で釣り合いが取れるようになった。
 これは《傲慢》がネイルを投擲にも用いるが故に行う重心の微調整であり、まだ実戦経験も多くない彼が師匠に常に万全にするようにと指導されたが故に必ず絶やさずやっている整備であった。

 

「《傲慢》様、連絡が入りました」
 全ての整備が終わったタイミングで見計らったかのようにテンプル騎士団の女が呼ぶ。
 特に驚くようなことではない。インクィジターのトップは咎人の一挙一動を全て監視している、なんて事はもはや咎人としては新入りの《傲慢》でさえ知っている事だ。
「《傲慢》、ここに」
「うむ。まずパソコンはバチカンへ持ち帰れ。だがそれをするのはお前ではない。お前を支援したテンプル騎士団の駒に渡し、確実に騎士団長の元へ運ばせよ」
「はっ。それでは……」
「待て、お前自身への神託をまだ伝えてはおらんだろう」
「はっ」
「新人だからと甘やかしてイタリア国内に留めたのが甘えを生んだのかもしれんと思うてな。お主はそこの補佐にパソコンを手渡した後、中国に迎え」
「ちゅ、中国ですか?」
「うむ。イスタンブールに聖騎士を送っておく、イスタンブールまでは独力で移動せよ」
「はっ」
「あ、あの、お言葉ですが、ここからイスタンブールまでは車でも17時間はかかる距離があります、それをお金も持たぬ……」
「黙れ、我らの温情で生きながらえているテンプル騎士団の……ましてたかが騎士ナイトの分際で我らに言葉を挟むか」
「いえ、申し訳ありません」
 黙って従う向きの《傲慢》を見かねて、女性騎士が口を挟むが、インクィジターの一睨みで口をつむぐ。
 インクィジターの下部組織でしかないテンプル騎士団の一戦力でしかない騎士にインクィジターが耳を貸すはずもなかった。
 ピンと来ない読者のために説明しよう。
 イタリアからイスタンブール……即ちトルコに至るまでの間には、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、ブルガリアなどの国を通過する必要がある。
 いずれもEUに属した国であるため国境を越えること自体は容易だが、やはり、その距離は極めて遠いとしか言いようがない。

 

 二人は直ちに移動を始め、リベルタ橋を通り、イタリア本土のメストレ地区に到着すると同時に分かれた。
 途中行く先が同じの車に乗せてもらいつつ《傲慢》は2日かけてなんとかスロベニアのリュブリャナに到着した。
「ふぅ」
 街から少し離れた場所、建物の影でこっそりと眠りにつく。
 《傲慢》として、遠征する事自体は初めてであったが、野宿には慣れていた。


 今から10年は昔の話。後に《傲慢》の名を与えられることになる少年はイタリアの捨て子として生を受けた。
 今になってみると赤子の時点で捨てるのではなく、物心がついてから捨てたのは、見たこともない両親の僅かな優しさだったのか、それともたまたまその段階でどうしようもなくなっただけなのか。
 それにしても最後の記憶は捨てられた直後、というのは何だか不思議ではある。
 ――あるいはこれも神の思し召し?
 自嘲気味に《傲慢》が笑う。
 まぁそんなわけで事情は一切わからないが、少年はイタリアの街、その裏路地で逞しく生きた。
 当初こそ飢えて凍えてばかりだったが、少しずつ食料や暖を盗む方法を学んだし、それで何度か酷い目にもあった。その次は怒られずに食料や暖を得る方法も学んだ。
 そして、ある日、師匠である《暴食グリーティ》も出会ったのだ。
 厳密にはそれがいつのことだったかはわからない。少なくとも捨て子として生活する中で3年は過ごしたと思っているが、実のところ一年が365日ということすら知らなかったのだから、正確な期間など知るべくもない。
 ともかくそうして、少年はインクィジターに引き取られた。その後はひたすら訓練の日々だった。
 《暴食》ことシン師匠は恐ろしくスパルタであり、《傲慢》より一つ年下と思えないほど強かった。
 それは即ち《傲慢》よりももっともっと若いうちから……それこそ物心着いた時から咎人となるべく育てられたという事なのだろうが、それが貧しいホームレス生活を続けていた自分とどちらが幸せなのか、《傲慢》には分からない。
 それからしばらくして姉弟子の《色欲ラスト》がやってきて……。

 

 思わず長すぎる回想をしてしまった。と目を開ける。
 朝を迎えたのを確認し、固形食料を一つ齧ってから、水源の位置を確認し、ザグレブに向けて歩き出す。
 スロベニア・モーターウェイの入り口に差し掛かる直前、《傲慢》に声をかけるものが一人。
「失礼、ミタート様ですか?」
 よくあるキャッチなら無視を決め込むのだが、その名前で声をかけられるとなると、そうもいかない。
 ミタートとは、シン師匠や姉弟子アリス……つまり、本当の名前を持つ師匠と姉弟子とプライベートで話す中で二人に考えてもらった、その二人だけが知っている本当の名前風の名前なのである。
 つまり、彼はシン師匠、もしくはアリスから知らされての使いだと分かる。
「私はテンプル騎士団のマルチェロ・アレクサンドル・ボルジア。聖騎士パラディンルドヴィーコ・アロイジオ・サヴィーノ様の命により、セルビアのベルグラードへ霊害退治に向かうところです。あなたも同じ方向に向かうところだと聞きました。共に向かいませんか? もちろん、霊害との戦いでも協力頂ければと思いますが」
 渡りに船な提案であった。《傲慢》は静かにこの偶然に感謝した。
「厄介になろう。もちろん、霊害退治も協力させてもらう」
 ベオグラードまで歩くと二十四時間歩き詰めでも五日はかかる。対して車であればモーターウェイ高速道路を通って一日と経たずに到着できる。これは大きな違いであった。

 

 さて、霊害とは何か、という話をせねばならない。
 実はこの世界には、幽霊や妖怪、ゾンビや魔術師といったオカルト的な存在が実在する。《傲慢》らインクィジターや、マルチェロらテンプル騎士団が信奉する唯一神もまた実在する事を意味する。
 唯一神が秩序を成すように、オカルトは必ずしも人類に敵対的ではないどころか、様々な恩恵を与える。
 その一方で、聖書由来で考えるなら悪魔など、人類や人類文明に仇なす存在もまた実在する。
 このような人や人文明に悪影響を与える存在のことを霊害と総称し、世界中の様々な国家が対霊害対策組織を形成している。
 テンプル騎士団も基本的にはヨーロッパの霊害を討滅する事を目的とした組織と認識されている。

 

「マルチェロ卿、ボルジア姓という事はもしや……、ユーリのお父君?」
「はい、そのユーリは私の息子です。今は咎人候補として頑張ってると聞いていますが」
「えぇ。今は《強欲グリード》ですが」
「いつの間にか、正式に咎人になっていたのですか……」
「ご存知なかったのですか?」
「はい。
「えぇ、私も本当は従騎士になってもらうつもりだったのですが、インクィジターに見初められたとの事で。私自身が元々インクィジターに拾われたものの見込みなしでテンプル騎士団に入った身なので断りにくく……」
「なるほど……」
 咎人は《傲慢》や《暴食》、そして《怠惰》などのように孤児や捨て子が圧倒的に多い。
 一方で《色欲》や今話に出ているユーリのように親がいるのに咎人になる者もいる、
 《傲慢》はそれをずっと恵まれた環境のはずなのに何故だろうと思っていたが、なるほど、インクィジターの側から勧誘していたのか。
「ところで、ターゲットの霊害については?」
「あぁ、なんでも異端術師ヘレティックらしいです。無視できない規模で暴れ回ってるとか」
 マルチェロが資料を差し出す。
「なるほど、魔術師か。どれどれ……児童の行方不明事件の発生件数が異常だ。加えて一部地域の極端な電力消費。なるほどな」
 インクィジターやテンプル騎士団は自らの信奉する唯一神に由来する軌跡のみを神秘として認めている。このためそれら以外の「魔術」を「異端術」と呼んでいる。ただあまり実践的ではないので、実際には魔術師と普通に呼んでしまうことの方が大半だ。
「騎士隊を結成してないのも黒とは言い切れないからか」
「はい。規模次第では偵察に留め、本隊を要請せよと」
 通常、テンプル騎士団は聖騎士を中心に騎士隊を結成して現地へ行軍、対象を討滅する。
 そうではなくマルチェロという騎士位が単身で送り込まれているのは、霊害の存在が現時点では明確に断定できない状況にあるからだ。

 

 そしてかつてユーゴスラビア社会主義共和国連合の首都であり、今ではセルビア共和国の首都である、ベオグラードに到着する。
 所要時間はわずか五時間。車と高速道路という移動手段の速さを思い知らされる。
「では宿を取ってありますので、まずはそちらで」
「……いや、夜になれば魔術師が動き出すかもしれない。昼のうちに街を把握する」
 はるか昔から2032年の今まで、オカルトが蠢くのは夜と決まっていた。
 オカルトは秘匿されるべきものである。なぜなら、秘匿されなくなったオカルトは意味を失ってしまうからだ。
 オカルトそのものの有無さえ気にしないほどの享楽主義者や犯罪者がいないわけでもないが、少なくとも、レポートを見る限り、相手の魔術師は上手く隠せるとの確信を持って何かを行なっていると見える。
 であるならば、昼は安全のはずで、《傲慢》はその期間を利用し、約360km^2の総面積を持つベオグラード市街を一周した。
「日中の市街には特に怪しい箇所はないようだな……」
 握っていたネイルをポーチに戻す。
 《傲慢》の魔力で染まっているネイルは他の魔力に触れる……つまり他者の工房や陣地に近づくとその魔力に応じ状態を変化させる。
 小型で握りしめれば手の内に隠せるネイルは索敵にも使える道具なのである。
 ちなみにテンプル騎士団の持つロザリオはこの魔力感知機能を含む雑多な機能を複合した魔術道具である。
「とすると、後は夜に探るしかないか」
 ベオグラードは3000km^2の市域を持ち、先ほど巡ったのはそのうち市街の話でしかない。とはいえ、車の中で見た電力消費のデータ的に魔術師が活動しているのは市街の中心付近である可能性が高い。
 ということで、あえて郊外を探索する必要はないと《傲慢》は判断し、宿へと引き返す。

 

 夜中、草木も眠る丑三つ時。人通りのない街の中を、二人の男が歩いていた。
「魔力反応的にこの辺りのはずですが……」 
 ロザリオを握りながら、マルチェロが呟く。
「人の気配のあるめぼしい建物はほとんど探ったように思うが……」
 少なくとも魔力反応は拾った。つまり、このベオグラードに魔術師がいる事だけは確定した。
 にも関わらず、その居場所は依然として判明せず、二人は夜の街をひたすら練り歩いていた。

 

 さらに一時間後のこと、ふと《傲慢》が何かに気付く。
「あまりに不自然だ。敵の工房が移動型でこちらを回避するように移動しているのかもしれない。二手に別れよう」
「分かりました」
 《傲慢》の提案にマルチェロは頷く。
 《傲慢》は頷き返して、速やかにその場を離れる。
 一気に距離を取ったのち、速やかに手近なパイプを掴んでビルの屋上まで一気に登る。
 ビルの屋上から隣のビルの屋上までパルクールの要領で飛び越えていき、到達するは、マルチェロの頭上。
 ――見つけた
 先にマルチェロに説明したのは偽りのもの。
 本当は少し前から自分たちの後をつけている人間の痕跡に気づいてのものだった。
「ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。ヨシュア記10章9節」
 《傲慢》はネイルを構え、聖書の一節を唱えると、ビルの屋上から地上の影に隠れ人間目掛けて飛び降りた。
 ネイルに紐付いた魔術が落下の衝撃を弱めつつ、しかし、確かにビルの屋上から飛び降りた時の位置エネルギーと等しい運動エネルギーが男の背中に突き刺さった。
「まだ致命傷じゃないだろう? 話せば楽にしてやる。何をしていた、ここに巣食う魔術師の仲間か?」
 致命傷に至らぬ苦痛を与え、殺す事を条件に尋問する。結局のところ異教徒は殺すというインクィジターの方針に従った神の意向に沿った尋問方法である。しかし、それが通じぬ者達がいる。
「キヒヒ」
 しかし、男はそれには動じず、突き刺さった釘がより傷を抉る事を気にせず振り返り、ナイフを振りかぶる。男の充血した目が、男が痛みさえ無視するほどの狂気に振り切れている事を、《傲慢》に伝えている。
ハシシ使いアサシン!?」
 油断からか、対応が遅れた《傲慢》の左肩に男のナイフが突き刺さる。
「ぐっ……」
 苦痛に思わず顔を歪める《傲慢》。
 さらに滅多刺しにしようとナイフを振るうハシシ大麻中毒の男。
 なぜアサシンがハシシを用いて痛みを知らぬ戦士となる事を選んだのか。それこそは、自らより先だって存在した経典の民達の率いるインクィジター、そのやり口を知るが故である。
 インクィジター達が用いる痛みによって相手を封じ込める手を、その次なる一神教徒からなるアサシン達は封じてみせたのだ。
 インクィジターが咎人と暗殺教団のアサシン。彼らは始まりを同じくする対立者なのである。
「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。‭‭ルカによる福音書‬ ‭23章34‬節」
 《傲慢》の聖句が自身の神性力を高め、ただの物体にすぎないナイフを押し留める。
 ――神性の効きが弱い……。やはり裏にいるのは第三の一神教か
 数回ネイルとナイフがぶつかり合うが、その神性力は互角。いやむしろ、細長く指で挟んで持つネイルの方がナイフに負けていると見えた。
 もう片手のネイルで何度か不意を打って胴体を突き刺すが、ハシシに麻痺した体には即効性の効き目はない。
 痛みによる支配が通じず、武器としては相手が長じる。
 さりとて、インクィジターがそれに無策だったわけではない。彼らとて第二の信奉者。第一の信奉者と争うための武器は持ち得ているのだ。
「ユダヤ人たちは彼に答えた、「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」ヨハネによる福音書‬ ‭19章7‬節」
 《傲慢》はポーチから数本のネイルを取り出し、聖句を唱える。
 それは速やかに、白く光り、三本の巨大な爪へと姿を変えた。
「ナニッ!?」
 白く輝く三本の爪は、拮抗するどころか打ち勝っていたはずのナイフを打ち砕いた。
 矛盾した話だが、咎人達が持つ武器は、その実、同じ唯一神由来の神性にこそ強く働く。
 聖釘は神の子を処刑するために拘束したもの。聖槍は神の子の死を確認したもの。聖十字架は神の子を処刑のために拘束したもの。聖骸布は死んだ彼を包んだもの。
 それらは神の子の血を受けて聖なるものとなると同時に、神の子を殺したという意味を、そして効果をも内包する。
「安らかに、神の国へ至るがいい!」
 守るものを失った男の胸へ《傲慢》のネイルが突き刺さる。
 この解釈を教会が表立って表現したことはない。
 唯一神の信奉者が唯一神の信奉者と争うなど、まして神を殺そうなどと、そのような事を考える事は罪深い事だからである。
 ゆえに咎人。ゆえに7つの罪の名を冠する。
 彼らは自ら信奉する神を殺す手段を与えられ、神を殺すものとして予め罪を与えられた。罪を背負うために育てられた存在なのである。
「くそ……」
「せめて神の国に行く前に、何か一言でも語ったらどうだ。何が狙いでこんな事を」
 無茶と思いつつも《傲慢》は尋ねる。
「我々の狙い? それはな……、貴様が持っているデータさ、《傲慢》」
「なに」
「あのデータの重要性を理解しているのがインクィジターだけだと思ったか。我々、暗殺教団は今後も貴様達とデータを狙い続ける。震えるがいい。先に神の国で待っているよ、咎人。せめて最後の審判でその罪が許される事を祈ってやるよ。[アラビア語神は偉大なり]」
 男は《傲慢》の腕の中で事切れた。
「安らかに眠れ」
 《傲慢》は男の目蓋を閉じさせて、静かに男を地面に横たえさせ、軽く祈ってからその場を立ち去った。

 

 マルチェロの元へ戻ってみると事態は急変していた。
 マルチェロは白く輝く鎧を身に纏い、白く輝く剣を構えており、その周囲を四人の男が囲んでいた。
 マルチェロの鎧と剣はそれぞれ霊光甲冑と霊光剣と呼ばれる武器で、聖書に信仰によって得られる守りであり武器とされる信仰の守りと霊の剣が実体を成したものである。
「何があった!」
「《傲慢》様、突然、この魔術師達に襲われて」
「紅い薔薇と黄金の十字架……黄金の夜明け団G.D.か! 魔術結社がなぜこんなところに」
 そもそも1900年のプライスロードの戦いで分裂したはずの魔術結社である。なぜこの2032年の世の中に姿を現したのか。まぁ一戦士であるマルチェロと《傲慢》には関係のない話ではある。
「現れたか、《傲慢》。我ら黄金の夜明け団、お前がヴェネツィアで得たデータを頂きに来た」
「こいつらもか」
 《傲慢》は少し困惑しつつも聖句を唱えてネイルを大きな爪へと変化させる。
 四人から一斉に魔術が放たれる。
 それらは火、土、水、風とバラバラだったが、《傲慢》はその全てを両手のネイルで斬り払う。
 ――反動が強い。こいつらも天使の照応を使ってるな……
「やはり、中途半端な魔術では効きが弱いか。調整魔術を使う」
 一人の言葉に三人が頷き、四人の男がそれぞれ異なるシンボルを体に刻む。
 うち二人は水銀、もう二人は硫黄で。
 四人の中央に膨大な魔力が収束し始める。
 それは天使護符テレズマを根幹に錬金術アルケミア占星術アストロジア精霊術シャーマニズムまでを複合した調整魔術であり、ただ強力なだけでなくあらゆる防御特性を他の特性で無効化する強力な魔術なのだが、魔術に深い造詣のない彼らにはただ強力な魔術としか映らない。
「《傲慢》様! こちらへ!」
 マルチェロが《傲慢》に背を向け、白いタワーシールドを出現させる。霊光大盾と呼ばれるリチャード騎士団の魔術の一つだ。
「いや、儀式魔術ソーセリ・マジック級の攻撃相手に守ったら負ける!」
 うち一人にネイルで斬りかかるが、場を維持している魔力が斥力を形成し、接近を許さない。
 ――だったら!
 聖句を唱え、左手のネイルに神殺しの解釈を付与する。
 左手のネイルを一閃し、魔力塊の神性を無力化、その直後に神性が健在な右手のネイルで斥力を逸らし、前進する。
 しかし、中は様々なリソースが吹き乱れる嵐のようだった。
「ぐっ、くそ」
 ――体が捻り切られそうだ
 直後、どくん、と、四人の中央の魔力塊が拍動するのを感じた。
 ――まずい!


 その頃少し離れたビルの上で、ナガンM1895と呼ばれるリボルバー拳銃を構える男が一人。
「『神の命令サリエル』」
 男の言葉と同時にリボルバーのシリンダーが回転する。
 そして、引き金が引かれる。
 放たれた光の弾丸は速やかに《傲慢》が対峙する魔力の塊へと飛んでいく。

 

 一瞬、自身にかかってきたあらゆる重圧、斥力が消えた。
 ――訳は分からないが、好機!
 ネイルを一本だけに持ち替える。
「神の国へ召されよ!」
 一番近くの男へ。その胸、心臓を一刺し。

 

 そして、次の瞬間、四方を閉じ安定していた複雑なエネルギーの収束体が安定を失い、倒れた男の方向へ、そしてそれは即ち《傲慢》のいる方向へ、殺到した。
 《傲慢》は圧倒的な斥力で体が宙に浮かぶのを感じた。
 ――このままじゃ、体が、バラバラに……!
 しかし、眼前に建物があるのに気付き、《傲慢》はその思考を中断する。
「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。イザヤ書40章31節」
 聖句でネイルを大きくし、楔のように建物に差し込む。その楔を頼りに、魔力の暴力から抜け出した。
「ふぅ」
 地面に足がついて一息つく。
 見ると、虎の子の調整魔術を破られ、魔術師三人が逃げていくところであった。
「ご無事ですか?」
「なんとかな」
 駆け寄り心配するマルチェロに頷き返し、魔力探知を試みる。
「先程までと違い、反応の位置が具体的になったな。奴らが探知を妨害していたのか」

 

 そして見つけた、儀式場はある建物の地下にあった。
 それは地脈から魔力を吸い上げ魔力反応を発するだけの陣だった。
「私達をあの場所に誘き出すためだけのものだったのか」
「そうなりますね」
「電力の異常消費も、児童の行方不明事件も、このための偽情報か」
 それほどまでに、あのデータを欲していたのか。
 水面下でいろんな神秘勢力が何かを求めて睨み合っている。さながら冷戦のように。
 どうやら、インクィジターはその冷戦状態をいち早く破りに出たらしい。
 それだけは、《傲慢》にも分かった。
「今晩のところはホテルに戻って休みましょう。私、この任務の後は休暇なので、イスタンブールまで送りますよ。また道中を狙われては大変でしょうし」
「お言葉に甘えよう」

 

◆ ◆ ◆

 

 その頃、インクィジター中枢議会。
「聖騎士ルドヴィーコよ。貴様、我らが咎人に与えた任務を知りながら、それを幇助したな?」
「いえいえ、それは誤解です。ただ独自に霊害の情報を得たが故、その対処に部下を送った結果、たまたま同じルートを進む予定だったヒッチハイカーがいただけのことです」
 ルドヴィーコと呼ばれる聖騎士がインクィジターの老齢の者どもより、詰問を受けていた。
「聖騎士ルドヴィーコよ。貴様の迂闊な判断のせいで我らが咎人を失っていたかもしれないのだぞ?」
「いえいえ、それも誤解です。騎士隊を送り出していれば、彼らは身を隠し、ターゲットが現れるのを待った事でしょう。騎士マルチェロ一人がターゲットと同行したが故、この戦いは無事に勝利出来たのです。どちらが欠けていても、これはあり得ませんでした。あ、もちろん、先に述べた通り、偶然の産物ですが」
 しかし、ルドヴィーコもさるもの。飄々とその詰問を躱して行く。
「では、聖騎士ルドヴィーコよ。貴様はたまたま咎人を巻き込む指示を出してしまい、たまたまそれがうまくいった、そう言うのだな?」
「その通りです、インクィジター様。咎人を巻き込んだ事そのものは伏せて謝罪するものでございます」
「……分かった。貴様の指示そのものに不自然性はない。咎人を巻き込んだ、その一点のみを貴様への懲罰事由とする。結果を待て。退出せよ」
「はっ。失礼致します」
 ルドヴィーコがインクィジターの老齢の者どもに背中を向ける。
「聖騎士ルドヴィーコよ、そのままで良いが、最後にもう一つだけ答えよ。当該戦闘中、極めて純度の高い、七大天使級のテレズマを感知している。そなたの天使銃ではないか?」
「まさか。もしそうだったら、今この瞬間に出廷できてはいますまい」
「……そうであったな。良い、退出せよ」

 

 大きな扉から、ルドヴィーコが出てくる。
「ルドヴィーコ卿!」
 先日《傲慢》と行動を共にしていた女性騎士が駆け寄る。
「あぁ、大丈夫。もう《傲慢》はベオグラードにいるし、これからイスタンブールまでも車で移動できる」
「ありがとうございます、ルドヴィーコ卿。本当にインクィジターと渡り合うなんて、流石は騎士位の時点で七大の天使から祝福を受け、次期騎士団長と目されるルドヴィーコ卿です」
 聖騎士であっても、インクィジターはまともにその意見に取り合ったりしない。要はテンプル騎士団自体が下に見られているのだ。そんな中、インクィジターに意見し、不況を買って首を刎ねられる事なく聖騎士の座に留まり続けているルドヴィーコは仲間内からも極めて特殊なテンプル騎士であると認識されていた。
「やめてくれ、そんなの運が良かっただけだ。それに、この件に関して言うと、僕がこう動くのも、奴らは織り込み済みだったと思うよ」
 でなければ、イスタンブールまで歩け、などと無駄な指示はしないはずだ。、とルドヴィーコは独白する。
「それにしても、暗殺教団だけならともかく、黄金の夜明け団まで動き出してるとなると、これはいよいよ不味い。主要な魔術結社や神秘組織は概ね動き出していると見るべきだ。我々テンプル騎士団も対魔術師戦が増えるのを見越して、フォーメーションや配置を更新する必要があるな。僕は騎士団長の元に進言に行く。君は原隊に戻りたまえ」
「はっ。ありがとうございました。お会いできて光栄でした!」
 女性騎士が去っていく。

 

 冷戦とは言わばはち切れそうなものがお互いに押し付けあっているが故に破裂せずに済んでいるもの。
 一度破裂したからには、元に戻すのは簡単ではない。
 これは文字通り、新しい、大きな戦いの始まり、その予兆なのであった。

 

 To be continue...

 


 

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