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温まるのは鍋か心か

 

※このエピソードは辰弥が「一般人として生きる」道を選択し、また、雪啼も「主任とずっと一緒にいる」と辰弥と和解した軸の物語IFとなっております。
本編での選択とは全く異なるパンクではない選択をした軸の物語をお楽しみください。

 


 

「よい、しょっと」
 日翔あきとがそんな掛け声とともに店先に立て看板式のメニューボードを出し、GNSから「今日のおすすめ」を入力していく。
「日翔、そっちの準備はできたか?」
 店の奥からトレイに入った惣菜を運んできた鏡介きょうすけが日翔に声をかける。
「こっちはもう終わるぜ。今日のおすすめは肉じゃがとポテトサラダとチーズ揚げ芋もちでよかったよな?」
「ああ、お前が間違えて大量に芋を発注したおかげで今日は芋尽くしだ」
 ショーケースにトレイを収めながら鏡介が苦笑する。
「流石に今日は売れ残りが出るかもしれないな」
「えー、残れば食えるからいいじゃん」
 そんなやり取りをしながら、日翔と鏡介が開店準備を進めていく。
 その店の奥、厨房で辰弥たつやはてきぱきと複数の鍋を順にかき混ぜていた。
「あ、鏡介、味見よろしく」
 鏡介が他のトレイを取りに厨房へ入ってきたところに辰弥が声をかける。
「ああ、任せろ」
 辰弥から肉じゃがの入った小皿を受け取り、鏡介が頷く。
 内臓の殆どを義体化している鏡介は基本的に義体用エナジーバーとゼリー飲料で食事を済ませていたが生身の人間用の食事ができないわけではない。そしてスラム出身でありながら日翔よりは舌が肥えているため味見役として辰弥によく声を掛けられている。
 鏡介が程よく煮込まれたじゃがいもを咀嚼し、飲み込むところを辰弥がほんの少し緊張の面持ちで眺めている。
「……うん、美味いな。味もぶれていないしいつものお前の味だと思う」
 そう言いながら鏡介が小皿をシンクに運ぶ。
 鏡介の返事に辰弥が口元をほころばせた。
「よかった」
「ちゃんとお前の味が出ていて、安心する。もう少し自信を持て」
 お前の店なんだ、お前が揺らげば看板も揺らぐ、と鏡介に諭され、辰弥はそうだね、と頷いた。
 辰弥と鏡介のそんな会話をよそに日翔がホロサイネージではない、少しレトロな雰囲気の看板に電源を入れる。
 「惣菜 日時計」と書かれた看板がチカリ、と点灯する。
「さて、と」
 パンパンと手を叩き、日翔が満足そうに看板を見上げる。
「今日もよろしくな」
 高層建築物に囲まれた空は狭いが、それでも青空は眩しく見える。
 今日もいい一巡になりそうだ、と呟き、日翔は開店準備の仕上げにと暖簾の竿を手に取った。

 

「おー、今日も流行ってんなー」
 ふらり、と店先に白衣を着た男が立ち寄り、そう言う。
「あー、主任か、よく来たなー」
 ショーケースをカウンターにした店先で店番をしていた日翔がその客を見て破顔する。
「お、雪啼も来てるのか」
 男の脚に抱きつく勢いでまとわりつく少女にも日翔は声をかける。
「あきと、じゃま。それと、せつなじゃなくてノイン」
 雪啼、と呼ばれた少女が日翔に向かってべー、と舌を出す。
「えー、俺の中では雪啼なんだよー」
 邪魔と言われてもへこたれず、日翔はカウンターから身を乗り出して少女――雪啼を見る。
「べー、だ!」
「こらこらノイン、お行儀よくしないと」
 男が雪啼をやんわりとたしなめ、それから日翔を見る。
「『惣菜 日時計』か……第一号エルステもいい名前を付けたものだな」
「おいおい、その名前で呼んでやるなよ。それにこの店名はあいつが俺たちの名前から考えて付けたものだしな」
 主任、と日翔に呼ばれた男――永江ながえ あきらがそうだな、と頷く。
「いやあ、それでも私にとってはエルステだからな……辰弥という名前は未だに馴染まないよ」
「馴染め」
 客に対して使う言葉づかいではないが気心知れた仲、日翔も言葉こそはきついが口調はそこまできつくない。
「で、今日は何するんだ」
「ああ、このおすすめの肉じゃがとほうれん草のお浸し、あとはきんぴらごぼうも貰おうか。流石におすすめばかりだと炭水化物が過ぎる」
「うぐっ」
 まさか客に「じゃがいもの発注量間違えました」とも言えず日翔が言葉に詰まる。
 その様子に晃はにやり、と笑う。
「どうせ君が発注を間違えたのだろう。しかしそれでも入荷量に応じてメニューを考えられるのは大したものだな」
 そう言ってから晃は「そうだな」と低く呟き、
「それじゃあポテトサラダも追加で。ノインがエル――辰弥のポテトサラダが好きなんだ。私はきんぴらごぼうが好きなんだが」
「あいよ」
 注文を受けた日翔が手際よく注文された惣菜を包み、会計を行う。
「それにしても、もう一年になるのか?」
 レジを打つ日翔に晃がそう声をかける。
「君たちが暗殺稼業から足を洗い、『白雪姫スノウホワイト』を売却して新しく店を立ち上げるとはね。しかもファンシーショップから惣菜屋、どういう風の吹き回しかと思えば、だよ」
「ああ、辰弥も『俺の料理で誰かが喜ぶなら』ってな」
 辰弥が「LEBレブ」という生物兵器だという事実がカグラ・コントラクター特殊第四部隊トクヨン隊長御神楽みかぐら 久遠くおんの口から明かされて約一年。
 一時期は辰弥がトクヨンに拘束されたりそれを救出するために日翔と鏡介が無茶をした上に鏡介が半身不随になる、といったこともあったが最終的に辰弥は御神楽の監視という名の庇護下で一般人として生きる道を選んだ。
 雪啼せつなも多数の人間を殺害し、血を吸うという凶行に及んでいたものの晃との再会により「主任と一緒にいる」と宣言、トクヨンも晃に「目を離さないこと」という条件をつけて処分を中止した。
 雪啼はまだ見た目五歳程度の子供である、というのがその理由だ。
 そのような経緯で辰弥たち三人は暗殺稼業から足を洗い、辰弥の希望で惣菜屋を開くこととなった。
 店舗の立地なども御神楽が徹底的にサポートしてくれたため、閑古鳥が鳴くこともない。
 辰弥の料理の腕も相まって連日ほぼ完売の、忙しい人々に寄り添った隠れた名店となっていた。
 その人気の秘訣の一つに「イケメン店員が店番をしている」という項目があることに日翔は気づいていない。
 日翔としては「売れ残れば食べられるんだけどなぁ」という下心があるため閉店近くなって売り切れの札が増えてくると嬉しさ半分寂しさ半分の気分になるらしい。
 実際、晃が買い物に来たこの時間はすでに閉店も近くなり、いくつかの商品は完売となっている。
 あいよ、と日翔が晃に商品の入った袋を手渡す。
「ああそうだ、これお裾分け」
 商品を受け取った晃が代わりのように何かが詰まった袋を手渡す。
「ん? ありがとよ」
「B品だが辰弥ならうまく調理してくれるだろう。明日のメニューが楽しみだ」
 そう言ってくつくつと笑う晃が手渡したのは彼が趣味で開発している唐辛子、「ナガエスペシャル」のB級品。
 御神楽の要望もあって一本で一日の栄養素のほとんどが摂取できる、栽培するにも環境を選ばないといったメリットばかりの唐辛子ではあるが悲しいかな、辛味大好きの晃の手で開発されたものだけあって辛さも世界一。
 それを使った「誰にでも食べやすい」料理の開発が最近の辰弥の楽しみだった。
「あ、辰弥呼ぼうか?」
 日翔がそう言って店の奥で後片付けをしている辰弥を呼ぼうとする。
「いや、いいよ。それよりも日翔、君に用事がある」
「ん?」
 店の奥の方へと振り返っていた日翔が晃を見る。
「大したことではないがな――生体義体の具合はどうだ?」
 「一般人として生きる」ことを選択した辰弥に、御神楽は店だけでなくもう一つの贈り物をしていた。
 それが、晃が開発したばかりの生体義体。
 筋萎縮性側索硬化症ALSが進行しても「ホワイトブラッドは体に入れない」と頑なに義体化を拒み、死を待つだけだった日翔に御神楽は「ホワイトブラッドを使用しない」最新の義体として生体義体を提供した。
「……ああ、すごく調子がいいぜ。痛みもないし強化内骨格インナースケルトンみたいに出力が制御できないなんてこともない。この間は豆腐を粉砕せずに持てたんだぞ」
「それはよかった」
 ホワイトブラッドを身体に入れないのなら、と日翔は生体義体の全身移植を受け入れた。
 開発されたばかりとはいえ全身生体義体の世界初のケースということで時々検査はされるが、日翔の命を脅かしていたALSは完全に克服されていた。
 そして今、辰弥と鏡介と共に「惣菜 日時計」を切り盛りするスタッフとして店頭に立っている。
 生活能力の無さとがさつさは克服できていないため調理はさせてもらえないが、最近は少しずつ辰弥に料理を教えてもらっている、と晃は聞かされていた。
「……なんなら、武装プラグイン入れてやろうか?」
「よせやい、俺はもう殺しなんてしないっての」
 晃の言葉に日翔が苦笑する。
 御神楽の庇護下で、もう違法行為に走る必要のない日翔に武装なんてものは必要ない。
 そうだな、と晃は残念そうに頷いた。
「せっかく生体義体の武装プラグイン開発して、日翔でテストできると思ったのに」
「相変わらずマッドサイエンティストだなぁあんた」
 そう言って日翔がからからと笑う。
「……なんだ主任、来てたの」
 日翔の話し声が聞こえたのだろう、辰弥が奥から顔を出す。
「よう、エルステ」
 晃が辰弥に向かって片手を挙げる。
「あ、ナガエスペシャル持ってきてくれたんだ、ありがとう」
 日翔の手の中の袋に気づき、辰弥が嬉しそうに言う。
「なかなか納得する出来にはならないから研究のしがいがあるよ。なんであんな辛いもの作ったの」
 そんなことを言いつつ、辰弥はあっと声をあげて一度奥に引っ込む。
それから、すぐに小さな瓶を一つ手に出てきた。
「はい、試作品の食べるラー油。冷奴に乗せると美味しいと思う」
「おお、準備いいな」
 ラー油の入った瓶を受け取り、晃が興味深そうに瓶の中を見る。
「あんた、ほぼ二日に一回は来るから。それなりに日持ちするし用意しておけば渡せるかなって」
 なるほど、と晃が嬉しそうに笑う。
「それじゃ、早速試させてもらうよ。ノイン、今日は冷奴も追加しようか」
「えー、辛いのやだー!」
「ははは、何遠慮してるんだ、エルステが作ったラー油だぞ、うまいに決まってるだろう」
 そんなことを言いながら晃は「それじゃ、」と二人に手を振る。
「ほら、ノイン帰るぞ」
 そう言って晃が手を差し出すと、雪啼は嬉しそうにその手を握った。
「じゃあ、また来るよ」
「パパ、あきと、またねー!」
 二人の後ろ姿が遠ざかっていく。
「……平和だな」
 二人を見送った日翔がポツリと呟く。
「そうだね」
 辰弥も素直に頷く。
 一年前までは想像すらできなかった生活。
 自分には殺ししかないと思い、他の生活なんてできるわけがないと思っていたのに今はこうやって平和に生きている。
 日翔も鏡介も共にいて、平和で、穏やかな日々が続いて。
 こんな幸せもあったんだ、と辰弥には目新しい発見が続いて。
 もちろん、時には売り上げを狙うならずものの襲撃もあったがそれは暗殺稼業で鍛えた腕がある。
 そうやって撃退していくうちに「あの店はやばい」という噂が広がったのか、無法者が近寄ることもなくなっていった。
 ただ、その一環で辰弥が武器を生成したため何度か久遠の呼び出しを受け、厳重注意は受けていたが。
「さて、今日の売れ残りは……と。ほとんど売れてるね、閉店までまだ三十分あるしこの調子なら完売かな」
 ショーケースを覗き、辰弥が満足そうに頷く。
「ちぇー、ポテトサラダ食えると思ったんだがなー」
 晃の購入でちょうど完売したポテトサラダのトレイを見て日翔がぼやく。
「夕飯もポテトサラダ作ってあげるから」
「よっしゃー!」
 辰弥の言葉に日翔がガッツポーズをする。
「じゃ、店番よろしく」
「あいよー」
 そんなやりとりで話を打ち切り、辰弥が奥へと戻っていく。
「……いっちょ前になったもんだなあ……」
 しみじみと呟き、日翔は店に近づいてきた常連の主婦を見て少しだけ姿勢を正した。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

「鍋、食いてえ」
 日翔が唐突にそんなことを言い出しだのは木枯らしが吹き始めた少し肌寒い日のことだった。
「何を急に」
 辰弥が怪訝そうに首を傾げる。
「いやぁ、寒くなってきたし鍋食いたいなあと思って」
 そこまで言った日翔が何かを思いついたのかポンと手を叩く。
「そうだ、鍋パしようぜ」
「三人で?」
 三人だったらいつものメンバーじゃん、とぼやく辰弥。
 いやいや違う、と日翔が首を振る。
「せっかくだから主任と雪啼と、あとトクヨンの奴らも呼んでさ」
「あの作り物若作りババア呼ぶの?」
「えっ」
 辰弥の発言に日翔が硬直する。
 いくら違法行為以外に制限がないとはいえ、辰弥は御神楽の監視下にある。
 そんなことを言えば――。
「おいおい発言には気をつけろ、トクヨンの狂気に殺されるぞ」
「あっ」
 やば、と辰弥が口を閉じる。
「……やっぱ、殺されるかな」
「……知らん」
 一瞬、二人の間に降りる沈黙。
 だが、すぐに思い直したように日翔は話題を戻した。
「と、とにかくみんなで鍋食おうぜ」
「でもどうして急に」
 鍋を食べたい、と言うだけなら分かる。寒くなってきたのだ、そろそろ鍋が恋しくなる季節だということは辰弥も理解していた。
 しかしトクヨンのメンバーを呼んでまで食べたいとは。
 そこはほら、と日翔が説明する。
「『日時計』もオープンして一年だしさ、なんかみんなで鍋つつきたいなーと思っただけだ」
 主任はしょっちゅう買いにくるし、ゼクスもツリガネソウが桜花に寄った時は来るが他の奴らは辰弥の料理なんてプレオープンの時くらいじゃないか? と日翔が言うと、辰弥は確かに、と頷いた。
「要は俺がどれくらい上達したか見せたい、と」
「そゆこと」
 日翔が頷く。
 それなら、と辰弥も頷いた。
「日程調整するよ。流石にトクヨンは勢揃いというわけにはいかないだろうけどトクヨンの狂気くらいは来れるようにしたいよね」
「おう、任せた」
 日翔が嬉しそうに頷く。
 それじゃ、連絡してみると辰弥は回線を開いた。

 

 辰弥が最初に連絡したのは晃。
《君から連絡するとは珍しいな》
「連絡する用事なんて俺からはないし」
 どうせあんたの今の興味は日翔だろ? と辰弥が言うと晃は確かに、とそれを認めた。
《で、君が連絡してきたんだ。日翔君に何かあったのか?》
「いや、あいつは元気いっぱいだよ。ただ、その日翔の要望で鍋パーティーすることになった」
《ほほう》
 興味深そうに晃が食いつく。
「で、あんたもきて欲しいってさ」
《そう言って、実は君も私に来てもらいたいんじゃないのか?》
 茶化すような晃の声。
「それは否定しないよ。あんたもみんなと鍋なら食べたいんじゃないの?」
《みんな、とは『グリム・リーパー』だけなのか?》
「『グリム・リーパー』は廃業したよ。まぁ、トクヨンのLEB小隊のメンバーも何人か呼ぶつもり」
 辰弥がそう説明するとなるほど、と晃も頷く。
《いいだろう、ノインを連れて行くよ》
「ありがとう。で、具材なんだけど……」
 大勢で鍋をつつくのであればそれなりに食材は必要である。
 こういった場合、食材を持ち寄るのが一番よさそうだが、と考えて辰弥は提案する。
「みんな好きなもの持ってくる?」
「《ちょ、》」
 辰弥が日翔にも話が分かるようにと発声していたため回線の向こうの晃とソファでコーヒーを飲んでいた日翔が同時に声を上げる。
「《闇鍋かよ!》」
 うわあ、こいつらシンクロしてる、と辰弥が関係のないところで考えを巡らせる。
「だってこっちで用意するの大変だよ?」
《やめろやめろやめろ!!!! LEB小隊巻き込んで闇鍋なんてしたら人間が食えなくなる!!!!》
 回線の向こうで晃が絶叫する。その絶叫が聴覚フィルタリングされて辰弥に届く。
《闇鍋はまだトクヨンに突入される前、LEBのみんなに『好きな食材持って来い』って言ってやったんだよ! そうしたらどうなったと思う?》
「……みんな唐辛子だった?」
 辰弥がそう言った瞬間、晃が「そうだけどそうじゃない!」と叫ぶ。
《みんな唐辛子と輸血パック持ってきたからブラッディ闇鍋になったんだよ!!!! 私、人間! 食えない!!!!》
「え、主任なら食えると思ってた」
《アホかーーーー!!!!》
 おかげで私とノインだけ違う小鍋だったんだぞうと晃がすすり泣きながら訴える。
 相変わらずの晃の情緒不安定に「はぁ、」とだけ応えた辰弥が分かった、と呟く。
「分かった、分かったから泣かないで。食材はこっちで用意するからあんたたちは材料費だけ持ってきて。仕方ないな、仕入れルート使って食材調達するか……」
《食材は任せた。楽しみにしているぞ》
 そんなことを話しながら、辰弥は日程を調整する。
 あらかた決まったところで不意に晃が辰弥に問いかけた。
《なあエルステ、》
「? どうかした?」
《ああいや……君は、幸せなのかなとふと思ってな》
 LEBにとっての幸せとはなんだろう、LEB小隊みたいに戦場に立つ方が実力も発揮できるし幸せなのか、LEBとしてのアイデンティティを捨てドリッテや君のように一般人に紛れるのが幸せなのか、ノインの未来はどちらが望ましいのか、最近そんなことを考えててな、と晃がこぼす。
「あー……」
 晃の言葉に辰弥が唸る。
 それから、
「俺は幸せだよ。日翔も鏡介もそばにいて、やりたい料理ができて、毎日が新鮮で、すごく楽しい」
 殺し以外で自分の存在意義を見つけられるとは思ってなかったから、と辰弥が続けると晃はそうか、と呟いた。
《そうか、幸せか……》
「どうかした?」
《いや、幸せならいいんだ。ありがとう》
 晃にそう言われ、辰弥はそっか、と頷いた。
「とにかく、鍋パ楽しみにしててよ」
《ああ、そうさせてもらう》
 それじゃ、と回線を切り、辰弥が日翔を見る。
「……どうかした?」
 微笑ましげな視線を投げかけてくる日翔に辰弥が首を傾げる。
「いや、幸せならよかったって思って」
「日翔まで」
 俺は幸せだよ? と強調する辰弥。
 その言葉に偽りはない。
 自分を造り出したのが御神楽の一部門だったとはいえ、その闇から救い出したのもまた御神楽。
 日翔や鏡介は闇に差し込んだ一筋の光だったが、御神楽は辰弥を日の当たる場所へと引き上げてくれた。
 それを幸せと言わずして何と言うのだろうか。
 暗殺者として生きていた時とはまた別の充足感が、今の生活にはある。
「……日翔、」
 辰弥が日翔の前に立つ。
「ありがとう、俺を保護してくれて」
「そうやって改まって言われるとなんか恥ずかしいな」
 あの時はそこまで深く考えてなかったから、と日翔が正直に話すと辰弥も「だろうね」と苦笑する。
「だけど、あの時君が俺に手を差し伸べてくれたから今の俺がいる。感謝してるよ」
 その言葉と共に、辰弥が日翔の額を軽く弾く。
「って!」
 反射的にそう声を上げ、それから日翔も笑った。
「どういたしまして」
 うん、と辰弥が頷く。
「じゃあ、トクヨンにも連絡入れるよ」
 おう、と日翔も頷く。
「ゼクス、来れるといいな」
「そう言って、ゼクスと飲みたいだけじゃないの?」
 でもあいつ実年齢俺より歳下、未成年だよ? と辰弥が釘を刺すも日翔は「知るか」と一蹴する。
「見た目はお前より歳上だから身体はできあがってるだろ、飲める飲める」
 これぞきのーほー、と意味も分からず言い出した日翔に辰弥が苦笑する。
 これはゼクスから聞いたな、と思いつつも日翔がまた元気に飲めるようになった事実が嬉しくて笑みが溢れてしまう。
「もう、飲み過ぎないでよ」
「俺の場合はナノマシンで分解されるから二日酔いにはならねーよ」
 日翔にそう言われ、辰弥は分かった分かった、と頷いた。

 

◆◇◆  ◆◇◆

 

 辰弥が住むマンションの前にカグラ・コントラクターの音速輸送機が飛来し、久遠をはじめとする特殊第四部隊の数人が降りてくる。
 突然のカグラ・コントラクターの来訪にぎょっとする近所の人々ではあったが穏便な様子で辰弥の部屋に入っていくのを見てほっと胸を撫で下ろす。
 辰弥とカグラ・コントラクターのつながりは近所でも割と有名な話となっている。
 曰く、下手に強盗に押し入ろうものならカグラ・コントラクターが即駆けつけて制圧するくらいの契約を交わされている、など――。
 その久遠の来訪から遅れること数分、晃も雪啼を連れて部屋に来る。
「辰弥君、久しぶりね」
 部屋に上がった久遠が開口一番、辰弥にそう言う。
「久しぶり、って、一環(一ヶ月)ほど前に呼び出されたんだけどね」
 最近は頻度が減ったものの時折現れるならず者。それを撃退するためにナイフ抜いたんだった、と思い出しつつ辰弥が苦笑する。
「殺してないからいいじゃない。それに武器は全部預けたでしょ」
「だからってそう気安く作るなって言ってるのよ。その能力が一般に知られれば貴方を利用して良からぬことを企む組織の一つや二つ出てくるかもしれないのよ」
 久遠の言葉にそれはそう、と頷く辰弥。
 辰弥が生物兵器LEBということは一般的に知られているわけではない。
 LEBという存在があること自体はそれなりに知られてはいるが誰が、というところまでははっきりと明かされていない。
 だからこそ辰弥も一般人として生きることができているわけだが知られてしまえばそうはいかないだろう。
「それはそうと、辰弥君」
 何やら重要な要件があったか、久遠が改まった顔で辰弥を見る。
「ん?」
 LEBの件以外で大切な話あったっけ、と辰弥が首を傾げる。
「『作り物若作りババア』ってどういうことかしら」
「ひっ」
 辰弥の喉からひゅう、と息が漏れる。
「……聞いてたの」
「あら、貴方がトクヨンの監視下にあるってことは会話くらい筒抜けよ? 普段は聞いてないふりしてるけど、流石に『作り物若作りババア』は看過できないわねえ……」
 まるで指を鳴らすかのように両手を組みながら久遠が辰弥に迫る。
「あ、ごめん俺今出汁取ってるから!」
 これはまずい、と辰弥が身を翻し脱兎の如くキッチンに逃げようとする。
「あ、こら逃さないわよ!」
 即座に久遠が手を伸ばし、辰弥の上着の襟を掴む。
「ぐえっ」
 辰弥から変な声が聞こえた気がするが気にしない。
「この落とし前はどうやってつけてもらおうかしらねえ……」
 辰弥の首根っこを掴み持ち上げた久遠が手首を捻り辰弥と目線を合わせる。
 身長一五〇センチ台という小柄な辰弥はつま先が辛うじて床に付く、といった状態になりほぼぶらぶらとぶら下がっている。
「うぅ……」
 成す術なく辰弥が唸る。
「冗談よ。でも、『作り物若作りババア』はちょっと傷つくから控えて欲しいわねえ」
「……トクヨンの狂気でも傷つくこと、あるんだ」
「何か言った?」
 じろり、と久遠が辰弥を睨む。
「いや、何も言ってません」
「よろしい」
 満足そうに頷き、久遠が辰弥を床に下ろす。
「で、鍋って?」
 うん、と辰弥が頷く。
「寒くなってきたからね……。御神楽の義体なら通常食も食べられるでしょ?」
 御神楽の義体に限らず、アカシアこの世界の人工臓器は余程の安物でない限りサイボーグ食だけでなく生身用の食事も消化することができる。
 あの鏡介ですら辰弥の料理を口にすることができるのだ、それより高性能な御神楽の義体を使っている久遠が食べられないはずがない。
「勿論、食べられるわよ。だけど生身用の食事は久しぶりだから味、分かるかしら」
「『日時計』のプレオープンの時に試食して『美味しい』って言ってくれたのは覚えてるよ」
 それはそうだった、と久遠が頷く。
「とにかく、楽しみにしてるわ」
「流石にちょっと緊張してるけどね」
 そんなことを言いながら、辰弥が久遠を奥に通す。
「よう、エルステ! 元気してたか?」
 久遠の後ろから現れたのはかつて晃が開発した第二世代LEBのゼクスと辰弥の直後に造られた第二号ツヴァイテの二人。
「まさか貴方がトクヨンに入らず一般人になるとはね……」
 ゼクスに続き、ツヴァイテもそんなことを言いながら部屋に入ってくる。
「お、ゼクス来たか!」
 久遠が入ってきたことで到着を知ったのだろう、日翔が玄関に出てきて、ゼクスの顔を見て破顔する。
「おー、日翔! 久しぶり! 酒持ってきたぜ酒!」
「おー、飲もうぜ!」
 初めて顔を合わせてすぐに意気投合していた日翔とゼクスは今でも当然のように仲がいい。
 「ツリガネソウ」が桜花に寄港した際、ゼクスは何かしらの土産物を持って「日時計」に顔を出してくれる。
 そのため、トクヨンの中では一番顔を出してくれるメンバーであるし割と人間嫌いなところがあるLEB小隊の中では日翔と仲良くしてくれるということで辰弥も微笑ましく見守っている。
「二人とも、飲み過ぎないでよ」
 そう言って辰弥がゼクスとツヴァイテを奥に通す。
「楽しそうね、エルステ」
 通り過ぎざま、ツヴァイテが辰弥をちら、と見て言う。
「うん、楽しいよ? 君も一般人になってみる?」
 挑発するような辰弥の言葉。
 それには首を横に振ることで否定し、ツヴァイテもふと笑う。
「私は今の生活で満足しているから必要ないわ。それに私がいないとみんな好き勝手するから」
 ゴリラの相手は大変なのよ、と笑いながらツヴァイテはそう言った。

 

 全員がダイニングに集まるとテーブルにはカセットコンロと出汁の入った土鍋が用意されていた。
「みんな、集まった?」
 全員をダイニングに送り込んだ辰弥がそう確認する。
 今回のメンバーは辰弥を含めた元「グリム・リーパー」の三人に追加して晃と雪啼、トクヨンから久遠とLEB小隊を代表してゼクスとツヴァイテが来た計八人。
 本当はウォーラスや他のLEB小隊メンバーも呼んでいたのだが彼らは遠征任務があるということで来ていない。
 当然、現在LEFレフでパティシエをしている第三号ドリッテも来られるはずはなかったが辰弥が事前に連絡していたため航空便で届けられたケーキが冷蔵庫で待機している。
 「まさかお前が生きてるとは思ってなかったよ」「そういう君こそパティシエとかどういう風の吹き回し」と久遠の計らいで連絡を取ることができた二人のやり取りは久遠にとって忘れ難い記憶の一つとなっている。
「全員集まったようだ、そろそろ始めよう」
 メンバーの確認をしていた鏡介が辰弥にそう言うと、辰弥は分かった、と一度キッチンに引っ込み具材が入った大皿を持ってダイニングに戻ってくる。
「うお、すげえ!」
 真っ先に声を上げたのはゼクス。
 定番の白菜や長ネギ、春菊や各種きのこをはじめとして魚介が多めなのは桜花が島国で、辰弥の住む下条二田市げじょうふったしにも漁港があり鮮魚が比較的手に入りやすいからか。
「今日はすごく美味しそうな金目鯛手に入ったからメインは金目鯛で。肉が欲しい人のために豚肉と鶏肉も用意したから入れるよ」
 そう説明しながら辰弥が土鍋の蓋を開けると美味しそうな出汁の匂いと共にすでに調理された分の鍋が一同に披露される。
「おお……」
 見栄え良く並べて煮込まれた食材に、一同が思わず声を上げる。
「出汁は昆布メインの醤油ベース。薄いと思ったらポン酢醤油あるから使って」
 そう言って辰弥が鏡介に目配せすると、鏡介も小さく頷いてそれぞれの小鉢に鍋を取り分けていく。
 配膳だけなら日翔でもできるが鍋のような多数の繊細な具材が入った料理は鏡介の方が細やかな配慮で盛り付けできるため辰弥も安心して任せている。
 全員がほぼ同じような盛り付けされた小鉢を受け取り、その香りを楽しむ。
「……この香りは、出汁に生姜も入れたのね」
「よく分かるね」
 久遠の言葉に辰弥が頷く。
「それに金目鯛も見た感じしっかりしていて美味しそうね。目利きも鋭いわね」
「伊達に惣菜屋やってないよ」
 やっぱり、同じ値段で仕入れるならいい食材使いたいし、と辰弥。
「そんなこと言ってないで食おうぜー」
「そうだそうだー!」
 辰弥と久遠のやりとりをよそにすでに酒盛りを始めていた日翔とゼクスが騒ぎ始める。
「はいはい。じゃあ挨拶省略、食べよう」
 どうせ挨拶面倒だったし、と辰弥が箸を手に取る。
「「いえー!!!!」」
 辰弥の言葉が待ちきれずに日翔とゼクスが箸をつける。
「うっま!」
 真っ先に金目鯛を口に運んだゼクスが声を上げる。
「やっば、こんなうまい魚の鍋食ったことない!」
「食レポかよー」
 ゼクスがうまいうまいと声を上げながら鍋を頬張り、それを隣に座った日翔が茶化すように脇をつつく。
 ひとしきりゼクスをつついてから日翔も金目鯛を口に運び、やべえ、と声を上げる。
「辰弥の本気を見た……」
「何言ってんの、いつも通りだよ」
 そう答える辰弥の口元も緩んでいる。
 ゼクス、日翔に続き他のメンバーも鍋を口に運ぶ。
「あら、美味しいじゃない」
 ツヴァイテも口元に笑みを浮かべる。
「美味しいものを食べると笑いが出る、って聞くけど本当なのね」
 ふふ、と笑いながらツヴァイテが鍋を頬張っていく。
「やっぱりエルステは戦うよりこっちの方が向いているのかも」
「そうね」
 ツヴァイテの言葉に久遠も同意する。
「辰弥君、腕を上げたじゃない。やっぱり一般人になって正解だったんじゃない?」
 久遠にそう言われ、辰弥が苦笑した。
 はじめに一般人になるかと提案された時は「殺し以外の道が分からないから」と一般人になることを渋っていた。
 しかし久遠の説得、そして自分のために半身不随になる程のダメージを受けた鏡介を見て辰弥は一般人になる道を選んだ。
 一般人になるなら、と普段から「店出せるぞ」と言われていた料理のスキルを活かそうと考えた。
 その結果の惣菜屋だったが、その選択は正解だったらしく、店員の顔の良さも相まって客足の絶えない賑やかな店となった。
 最終的に一般人になるという道を選択したのは辰弥だったが、その選択肢を提示した久遠や背中を押してくれた日翔と鏡介の二人には感謝している。
 みんなのおかげで以前よりも充実した生活が送ることができる、と。
「よく頑張ったわね」
 久遠が辰弥に笑いかける。
 ありがとう、と辰弥も笑った。
「あんたが一般人になる可能性を教えてくれたから」
「選んだのは貴方よ、辰弥君」
 久遠がもう一口鍋を口に運ぶ。
「……温かいわね」
 こうやって気心知れた仲間が集まって、同じ食事を囲んで、笑い合って。
 これが「当たり前」の生活なのだと、この一年で辰弥は痛いほど思い知った。
 呪われた血を持つ自分でもこんな生活を送る権利があったのだと。
 そう考えると、あれだけ憎み続けた自分の開発者、所沢博士にもわずかに感謝の念が浮かぶ。
 あんたのおかげで、俺は生きているんだ、と。
「どうした、辰弥」
 辰弥の隣に座った鏡介が、彼の小鉢の中身が空になっているのに気づきそっとおかわりをよそう。
「あ、ありがとう」
 辰弥がにこり、と笑んでみせる。
「ちょっと考えてた」
「何を」
 鏡介も珍しくおかわりをよそいながら辰弥に訊く。
「所沢博士が俺を造ってなければ俺は今、ここにいなかったんだな、って」
「……そうだな」
 辰弥の出自が出自だけに、鏡介は複雑な気分になった。
 人間のエゴだけで生み出された辰弥。本来なら生まれてはいけない存在だったのかもしれない。
 それでも。
 どのような経緯であれ、辰弥がこの世界に生を受けてよかった、と鏡介は思っていた。
 辰弥と出会ったことで鏡介自身もどれだけ救われたか。
 辰弥がいなければ今の生活に到達することもできなかった。
 辰弥のおかげで、今を生きることができている。
 そっと手を上げ、鏡介は辰弥の頭をポンポンと叩いた。
「もう、子供扱いして」
「子供だろ」
 もう、何度繰り返したか分からない他愛のないやりとり。
「もっと、幸せになれよ」
「もう充分幸せだって」
 これ以上望んだらバチが当たる、と辰弥が笑う。
 その言葉に鏡介の胸が締め付けられるように痛む。
 辰弥が謙虚だとかそういう理由でそんなことを言っているわけではないのはよく分かっている。
 ただ痛めつけられるのが当たり前だった日常から抜け出した時点で幸せを覚えてしまい、自分にはそれで充分だと考えてしまっている。
 もっと貪欲に幸せを求めていいんだ、と鏡介は言葉にしなかったがそう言いたかった。
 ただ、それを言ってしまうと辰弥がどこかへ行ってしまいそうな気がして。
 辰弥と、いや、辰弥と日翔と自分の三人で歩いて行きたいのだ、と鏡介は思った。三人でなら、どれだけの困難でもきっと乗り越えられるから、と。
 辰弥が楽しそうに鍋を口に運ぶ。
 鏡介も出汁を一口啜り、ほっと息を吐く。
「温かいな」
 先ほどの久遠と全く同じ言葉を鏡介は口にした。
 辰弥が作った鍋はとても優しい味がした。
 身体が温まるだけではなく、心も温められるような、優しい味。
 元々は生物兵器として開発された存在であったとしても、今の辰弥は一人の「人間」として多くの人に愛され、そして周りを愛している。
 守ってやりたい、と鏡介は思ったがそれは自分の役割ではない。
 御神楽の監視下ということは同時に御神楽によって守られているということでもある。
 たとえどのような悪意ある人間が辰弥を狙ったとしても、それは御神楽が全力で守ってくれる。
 今の俺はただ見守るしかできないな、と鏡介がふと苦笑する。
 辰弥にとってはその「見守る」という行動にそれだけ救われているのか、という話ではあるが鏡介にとってはそれだけでは物足りない。
 自分の手で、自分と日翔で辰弥を守りたい。
 だが、もうその必要はない。
 辰弥にはとても頼りになる守護者がもういるから。
 そんなことを考えながら辰弥を見ると、彼は口元に米粒を付けたまま周りの小鉢の様子に気を配っている。
「ふふ、」
 思わず笑みをこぼし、辰弥の動きを見守ってしまう。
「……?」
 鏡介からの視線に、辰弥が首を傾げる。
「どうかした?」
「口元にお弁当、ついてるぞ」
 そう言って、鏡介は辰弥の口元の米粒を取り除き、ぱくりと自分の口に運ぶ。
「あー!」
 ゼクスと酒盛りをしていたにも関わらず目ざとくその様子を見つけた日翔が叫ぶ。
「それ、俺がやりたかったー!」
「お前には無理だよ」
 ニヤリ、と鏡介が笑う。
「……賑やかね」
 ほんの少し嬉しそうに、久遠が呟いた。
 久遠とて幸せな辰弥を望んでいないわけではない。
 はじめは「全てのLEBの救済」という、ある種の使命感で動いていたが個々の考え、感情に触れることでそれぞれの幸せについて考えるようになった。
 どうすれば一人ひとりがそれぞれの「幸せ」を掴むことができるのか。
 まだ模索状態ではあるが、LEB小隊も誰一人不満を言わないどころか楽しそうにふざけた報告書を提出してくることを考えれば間違ってはいないのかもしれない。
 辰弥を監視している諜報部からの報告も聞くに値しないほどの当たり前の日常で、これでよかったのだ、と久遠は心底そう思った。
 「LEBだから幸せにならなければいけない」ではない。「人間のエゴという呪いを受けて生み出された存在だからこそ」今この瞬間は、そしてこの先も幸せになってもらいたい。
 兵器としての運命から解き放たれ、人々を笑顔にする道を選んだ辰弥。
 久遠もまた、辰弥にはもっと幸せになってほしい、と思っていた。
 もっとわがままを言ってくれていいのだ、と。
 その全てを叶えることはできないのはもちろん分かっている。
 それでも、可能な限りは叶えてやりたい。
 それなのに辰弥は現状に満足してしまったような、達観した子供のようなそんな様子で多くを望まない。
 このマセガキ、と久遠はこっそり毒づいた。
 もっとわがまま言って困らせなさいよ、と。
 そんなことを考えながら辰弥を見ていた久遠の向かいで晃と雪啼が騒ぎ始める。
「うーん、味が足りない。そう思わないか、ノイン」
「ううん、パパのお鍋、おいしいよ?」
 晃の言葉に雪啼が何かを察したのか必死で否定している。
「えー、やっぱり鍋にはこれがないと」
 そんなことを言いながら晃が懐から何か瓶を取り出し、小鉢に注ぎ始める。
「ほら、ノインにも掛けてあげよう」
「やだ、辛いのやだ!!」
 晃と雪啼の小鉢に注がれた真っ赤な液体。
「え、主任、ナガエシラチャーソース持って来てたのかよ!」
 晃の小瓶を見た日翔が声を上げる。
「改良に改良を重ねたスペシャル版だぞう! 近々発売予定だ!」
 じゃーん、と小瓶のラベルを自慢げに見せる晃。
 唐辛子の研究を生涯の趣味としている晃が開発した唐辛子、「ナガエスペシャル」を使用した唐辛子ソース、「ナガエシラチャーソース」。
 栄養素も旨味も申し分ないがやはり辛さは世界一。
「えっ? えっ? ……んー! んー!!!!」
 たっぷりと小鉢にナガエシラチャーソースを注ぎ込まれた雪啼が椅子の上に立ち上がり、晃に両手の指を向けた。
 その手がスポンジ銃にトランスし、スポンジの弾が晃に向けて発射される。
「おーおー撃つな撃つな」
 ぽぽぽぽーん、とスポンジ弾が辺りに飛び散る。
「もう永江博士、余計なことしないでよ」
 久遠の苦情に晃が「はははすまない」と笑いながら謝る。
「……ふふっ」
 そんな、一同のやり取りに辰弥が笑みをこぼす。
「……楽しいね」
 隣に座る鏡介に、辰弥が言う。
「そうだな」
 鏡介も頷き、もう一口出汁を啜った。

 

「ふー、食った食った」
 ゼクスが満足げに腹太鼓を叩きながらエントランスに出る。
 晃と雪啼は雪啼が眠たそうにしているから、と一足先に帰っている。
「美味しかったわよ、辰弥君」
 ぽん、と久遠が辰弥の肩を叩いた。
「毎日、楽しんでる?」
 久遠の問いかけに一瞬きょとん、とする辰弥。
 だがすぐに笑顔になり、うん、と頷いた。
「楽しいよ?」
 それは辰弥の本心。
 忙しくも、充実した毎日。
 暗殺者として生きていた時が楽しくなかったわけではない。
 日翔と鏡介と共に過ごすだけで楽しかった毎日。
 だが、それを上回る楽しい日々が過ぎている。
 こんな毎日は知らなかった。
 知らなかったから、望むことすらできなかった。
 今、この生活を知り、辰弥はもっと生きていたいと思った。
 もっとたくさんのことを見て、聞いて、経験したい。
 しかし、それを望むのは贅沢すぎるような気がして、口に出せなくて。
「……辰弥君?」
 ふと、口元を緩めて久遠が辰弥に言う。
「もっと、欲張ってもいいのよ?」
「……いい、のかな」
 おずおず、といった様子で辰弥が久遠を見る。
「いいのよ? 貴方はもっと、わがままを言っていい」
「俺は……」
 躊躇いがちな辰弥の言葉。
「……俺は、この生活がずっと続けばいいと思ってる。だけど……もっと、いろんなことを知りたい」
 この世界は、まだまだ俺の知らないことが多いから、と。
 久遠がそっと手を伸ばして辰弥の頭を撫でる。
 義体であるにもかかわらず、その手はとても温かく感じて辰弥ははにかんだように笑った。
「確かに監視下とはいえ、貴方は自由なのよ? 犯罪行為以外なら好きにしていいの。貴方は今、何がしたいの?」
「……それはまだ分からない。だけど――それを、見つけたい」
 そう、と久遠は呟いた。
 辰弥にはまだ可能性がある。それを、一番やってみたいということを見つけられたのなら。
「私にできることがあるならできる限りの協力はするから。わがまま、言いなさいよ」 
「……ありがとう」
 辰弥の口から「そこまでされる権利ないのに」という言葉が漏れかけて止まる。
 それに気づいた久遠がさらに辰弥の頭を撫でる。
 まだ、第一研究所にいた時の、所沢博士の言葉に囚われているのかと。
 第一号エルステと呼ばれていた頃の辰弥が何を言われてきたかは分からない。
 それでも、研究所を抜け出してからもその言葉に囚われ続けていることを考えると早くその呪縛から解き放たれてほしい、そう考える。
 しかしその呪縛から解き放つことができるのは自分ではない。
 日翔と鏡介というかけがえのない二人の親友こそが辰弥を呪縛から解き放てると思っている。
 辰弥の正体を知ってもなお見捨てることなく、危険も顧みずカグラ・コントラクターに挑んだあの二人なら、その強い絆なら、辰弥を呪縛から解き放って真に自由にしてくれると。
「隊長、迎えが来ました」
 ツヴァイテが久遠の隣に立ち、そう報告してくる。
 そう、と久遠は辰弥から離れた。
 日翔と鏡介の二人が辰弥の横に立つ。
「……辰弥君のこと、頼むわよ」
 迎えの音速輸送機の梯子に向かう前に久遠は二人にそう言った。
 一瞬きょとんと顔を見合わせた日翔と鏡介だが、すぐに二人とも笑って久遠を見る。
「もちろん。誰にも辰弥には手出しさせねえ」
「日翔、そういったことは御神楽の仕事だ。俺たちは精神面で辰弥を支えろ、そう言ってんだよ」
 日翔に説明しながら鏡介が辰弥の肩に手をかける。
「分かっている。辰弥はまだ過去に囚われている、少しでも早く自由になれるように支えるつもりだ」
「二人とも、頼もしいわね」
 久遠がふっと笑う。
「何かあったらすぐに連絡しなさい。貴方たちが無理する必要はないから」
 ああ、と日翔と鏡介が頷く。
「それじゃ、今日はごちそうさま。美味しかったわよ」
 久遠が梯子に手を掛ける。
 先に音速輸送機に乗り込んだツヴァイテとゼクスも三人に手を振る。
「エルステ、うまかったぞ!」
「店、大切にしなさいよ」
 音速輸送機から二人が口々に叫ぶ。
 久遠も音速輸送機に乗り込み、ドアが閉められる。
 地上から手を振る辰弥たち三人。
 窓から久遠たちも手を振り、音速輸送機が上空へと舞い上がる。
「賑やかだったなあ……」
 音速輸送機を見送った日翔が笑いながら呟く。
「……みんな、喜んでくれた」
 ぽつり、と辰弥が呟いた。
「? どうした?」
 鏡介が不思議そうに辰弥を見る。
 うん、と辰弥が頷く。
「……俺の料理で、喜んでくれる人がいるんだ」
「何を今更」
「俺はいっつもお前の料理が食えて嬉しいっての!」
 鏡介が辰弥の頭をポンポンと叩き、日翔が辰弥の肩に腕を回す。
「自信持てよ。お前の料理で救われた人間もいっぱいいるんだよ」
「そう……かな」
「ああ、お前の料理は優しい。お前はほとんど厨房だから知らないかもしれんが、お前の料理を買ってよかった、また買いたいと来てくれる客がすごく多いんだぞ。『作ってる人にありがとうって伝えてくれ』って何度言われたか」
 鏡介の言葉に、辰弥が目を見張る。
「そこまで……」
「ああ、お前は多くの人を癒しているんだ。むしろ、傷つけるより癒す方がお前の天分かもしれない」
「……」
 鏡介に言われ、辰弥が深呼吸するように大きく息を吐く。
「……俺が、人を癒してる……」
「そうだ。だから自信を持て。お前は、お前のままでいい」
 鏡介の言葉の一つ一つが辰弥に染み込んでいく。
 うん、と辰弥が頷いた。
「ありがとう。もう、迷わない」
「迷ってもいいんだぞ? むしろ迷ってこそ『人間』だ。ずっと迷って手探りで道を探して、その中でも正しいと自分が思った道を歩けばいい。ただ、お前はその道を知らなさ過ぎただけだったんだ」
 だからもっと迷え、と鏡介は続けた。
「なーに難しい話してるんだよ。毎日を楽しむ! それが楽しい生き方だ。ぐだぐだ考えてんじゃねえよ」
 屈託のない笑顔で日翔に言われ、辰弥も釣られて笑った。
 考えも行動も全く違う日翔と鏡介。
 だが二人が辰弥を大切に思う気持ちは同じだった。
 辰弥を幸せにしたい、いや、三人で幸せに生きたい。
 それを邪魔する人間は許さない、そう思う。
 たとえ御神楽が相手だったとしてもその気持ちは変わらないが、今御神楽は強力な味方として見守ってくれている。
 もう辰弥を脅かすものは存在しない。
 あとは辰弥自身の問題。
 冷たい風が三人の髪を揺らす。
「寒くなってきたし、戻ろうぜ」
 ぶるり、と日翔が身を震わせ、それから辰弥に「寒くないか?」と声をかける。
「うん、大丈夫」
 だけどもう戻ろう、と辰弥も頷く。
 三人が並んでマンションのエントランスに入り――。
 ふと、辰弥が足を止めた。
「……あっ」
「どうした?」
 先に立ってエレベーターを呼ぼうとした日翔が辰弥の声に振り返り、首を傾げる。
 辰弥がどうしよう、といった面持ちで日翔を見る。
「……やらかした」
「何を」
 一体何をやらかしたというのか。
 辰弥が作った鍋は完璧だった。どこにも非を打つようなところはない。
 しかし、辰弥は深刻そうな面持ちで口を開いた。
「……ドリッテのケーキ、デザートに出すの忘れた」
「「……」」
 辰弥の言葉に日翔と鏡介が顔を見合わせる。
「「なんだってーーーー!!!!」」
 日翔と鏡介の絶叫が、マンションのエントランスに響き渡った。

 

End.

 

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「温まるのは鍋か心か」のあとがきを
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