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No name lie -名前のない亡霊- 第1章

 

  序

 

「大丈夫、大丈夫だよ、度流わたるくん」
 優しく、抱きしめる柔らかいぬくもり。
「大丈夫、度流くん、今はつらいかもしれないけど、私がずっとずっと、傍にいるからね」
「……ずっと?」
 自信のなさそうな男の子の声に、同じくらいいたいけな女の子は、彼を抱きしめながら、囁く。
「そう、ずっと。永遠に」
 永遠なんて言葉の意味も理解していなさそうな年頃なのに、女の子の自信は確たるものだった。
「誰がいなくなっても、私だけは絶対に、ずっとずっと、度流くんの傍にいるからね」
「……ほんとうに?」
「誓うわ」
 そう告げると、女の子は男の子の唇に、ちゅ、と淡く口づけをした。
 男の子は少し目を見開いて驚き、それから女の子に微笑んだ。泣いた後で、目元は少し赤かったけれど。
「ありがとう、優音ゆねちゃん」
 約束だよ、と呟いて、幼い誓いがもう一度結ばれる。女の子が、口元を綻ばせた。
 幼いながらに、彼らは必死だったのだ。

 

御神楽みかぐらなんて、消えてしまえ!」
 そんな雄叫びが始まりだった。雄叫びと、爆発音。何が起こったのか、ホテルにいた者たちはすぐに気づけなかった。
 複数箇所で、それは同時に起こった。ホテルの各階で、同じ怒号と共に、自らの体にまとった爆弾を炸裂させていく。その現象を平和な一般市民が理解できるはずもなく……理解して、逃げ始める頃には、何人もが巻き込まれて、吹き飛んでいた。
 反御神楽過激派による無差別自爆テロ。後世に爪痕を残すテロが発生して、五歳の男の子、彼苑かれその度流わたるは父と母に逃げよう、といち早く言った。
「わ、度流!」
「けむりもくもく、少ない方、こっち」
 度流という子どもは凄惨な光景に目も向けず、両親の手を引いて歩いていく。理解しているのかいないのか、彼の向かう先は非常階段がある。
 いや、この光景が凄惨であることを理解していないからこそ、子どもは早く動けたのかもしれない。そのことに両親は救われた……かもしれない。
「度流、度流だけでも逃げて!」
「お父さん、お母さん?」
 手が離れたことに気づき、振り向くと、父と母にはテロリストとおぼしき人間が取りついていた。
 度流は判断ができない。逃げる、というのがどういうことかを理解できない。父と母を置いて逃げるとどうなるのか、理解できていない。
「信仰する者が存在するから、思想は偏るのだ!」
「信仰する者がいなくなればいい!」
「逃げてぇーーーーーーーー!!!!
 母の悲痛な叫びに、度流はじり、と後退りする。
「走れっ!!!!
 普段は叫んだりなんかしない父が吼えて、度流は、逃げることを選んだ。
 踵を返したその瞬間。
 どお、と爆風が熱と共に駆け抜け、度流を吹き飛ばす。幸か不幸か、度流は爆風を受け、吹き飛ばされただけで済んだ。
 全身を地面に叩きつけられ、痺れるような痛みが度流を支配する。それでも、何が起きたか理解するために、彼は振り向いた。
 振り向いてしまった。
 母がつけていたネックレスの石が、ころん、と転がる。父の着ていたスーツの端切れが浮遊している。
 度流は、見て、理解した。
「にげ、なきゃ……」
 思っていることは違う。
『度流だけでも逃げて!』
 母の言葉が耳鳴りと共に度流を支配する。
『走れっ!!!!
 父の怒号に、足は従っていた。
「逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ……逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ」
 半ば転げ落ちるように、度流は階段を下っていた。時々踏み外したり、一段余計に考えたりして、度流は打撲まみれになる。それでも止まらなかった。
 止まれなかった。
 それは生存本能とか、そういう高尚なものではない。度流はただ、親の言いつけに従った。それだけだ。非常口の扉を過ぎるたびに、どん、どん、という音がする。誰も逃げ込んでこない。
 一体、どのくらい降りただろうか。
 音がしない階に来た。というか、階段も途切れているので、そこは一階だった。
 荒れ果て、燃え盛るロビー。けれど、他の階よりはましだった。……いや。
 誰もいない。そのことに孤独感を覚える。
「! 非常階段から子どもが!」
 その声に度流はびく、と肩を跳ねさせ、それから安心した。
「ひどい怪我だ。一人で逃げてきたのかい?」
 声をかけてきた大人に、度流はこくりと頷く。
 言いたいことがあった。
「お……」
 言おうとして、言葉にならなかった。それは嗚咽へと変わる。大人は子どもが一人で逃げて、さぞ怖かったことだろう、と度流を救助し、病院へと送った。
 お父さんとお母さんを助けて。
 もう無理だとわかっているから、言えなかった。
 でも、言いたかった。

 

 

第一章 彼の嘘

 

 あれから、もう十二年が経つ。
 彼苑度流は高校生になった。孤児となった度流だったが、近所の父方の伯父に引き取られ、幼馴染みの荒崎あらざき優音ゆねと共に穏やかな日々を過ごしている。
 今だって、二人で手を繋いで日が傾き始めた中を歩いている。当然のように指を絡めた恋人繋ぎで寄り添い合っていた。
「度流くんがコンクールの絵のモデルに私を選んでくれるなんて嬉しいな」
 紫に艶めく髪を靡かせながら、優音は度流を見上げる。優音の緑と度流の薄紫が重なって、どちらからともなく、にこり、と微笑む。
 度流と優音は、もはや地域公認の恋人である。一見大人しく、淑やかそうな優音の方がアグレッシブに度流に迫り、度流はそれを優しく抱擁する。高校生とは思えないような寛容な恋に、見る人々は溜め息を吐くほどだ。
 見ているだけで絵になるカップルだが、実は度流の方が、美術に通じており、それこそ十二年前、反御神楽過激派による無差別自爆テロがあったすぐ後、彼が描いた作品は知らぬ者がいないほど有名である。
 曰く、五歳の感性ではない、と。
「懐かしいね。度流くんが最初に出した絵からももう十二年経つんだ。……『まだ止まない炎』だっけ」
「あはは……気味悪がる人もいたけどね」
「気味悪いなんてことないよ。私は、度流くんの目に映るそのままの景色、好きだよ」
「ありがとう」
 度流には、普通の人には見えない景色が見えた。といっても、さしてスピリチュアルなものではない。人よりより詳細に色や形を分別できる目がある、ということだ。
 テロの後、瓦解したビルを見て、度流が書いた「まだ止まない炎」という絵はテロの痕の黒く淀んだ空気を黒ではない色で表現していた。それはテロの恐ろしさとおぞましさを如実に表現し、度流がテロの被害者の一人であることも手伝って、人々を震撼させる絵となった。
 度流の目については様々言われ、視覚障害という診断が出ている。けれど、度流は義眼にもしていないし、電脳GNSも入れていない。
 それは、優音が度流の絵を度流の視覚障害ごと、愛してくれているからだ。
「度流くんにしか見えない世界があるんだよ。それってとっても素敵なことで、度流くん以外には、その景色は見えないの。……その唯一無二の景色を、絵に描いて、私にも見せて。私も度流くんが見ているのと同じ景色が見たいの」
 優音は度流を肯定し続けた。両親を目の前で失って、傷心していた度流を励まし続けたのも優音である。それはカウンセリング以上に度流のことを支えた。
 共依存、と笑われることもある。けれど二人は幸せだった。二人の間には、二人しか存在し得ないからだ。
 義眼はもちろんのこと、GNSによっても、視覚は矯正される。そのどちらも度流は拒んだ。優音と世界を共有したかったから。優音が度流に見えている世界を見て、笑ってくれるのが嬉しいから。
 気味が悪い、気持ちが悪い、病気なんだから治せ、という人も、少なからずいる。けれど、度流は自分の目が特別であることが誇りでさえあった。だから、変わらないでいたい。
 隣で笑う彼女を笑顔でいさせ続けるために。
「それで、コンクールのテーマは慰霊塔だったよね。慰霊塔を描くのはわかるけど、私って必要?」
 優音がそんなことを聞いてくるので、度流は目を丸くしてしまった。
 優音が必要じゃなかったことなど、一度もない。それに。
「まだ優音ちゃんにちゃんと見せてなかったでしょ? 僕の目で見た優音ちゃんのこと」
 度流の言葉に、今度は優音が目を丸くする番だった。
 二人でいつも一緒にいることが当たり前すぎて、気づいていなかったのだ。度流がまだ、優音を絵に描いたことがないことに。
 優音を描いたことがない、というと語弊がある。こんなに一緒にいるのだ。スケッチくらいしたことはある。優音は眉目秀麗、学園のマドンナといっても過言ではないくらいの美少女である。「絵になる」人物が側にいて、それをモデルにしないなんてあり得ない。が、度流は優音のことをスケッチはしても、今回のようにコンクールに出すような、はたまた美術の授業や部活で見せるような機会はなかった。鉛筆と練り消しで描いた白黒の優音しか描いたことがない。
 だから、今回のコンクールに出す絵には、優音を描こうと思ったのだ。
「コンクールの入賞作品は慰霊塔で開かれる展覧会で展示されるんだ。そこでみんなに、優音ちゃんを見てほしいんだ。あのテロからずっと僕を支え続けてくれた人として。テーマにも合うでしょう?」
「ふふ……度流くんからそう言われると、なんだか照れくさいね」
 優音は少し俯き、はにかんだ。
 優音のその儚げな表情を度流は今すぐにでもスケッチしたかった。優音は綺麗で素敵な子だ。親を目の前で亡くして、心身喪失状態だった度流にずっと寄り添い続けてくれた。特にテロがあってから、小学校入学までの一年半くらいは地獄のようだったのではないだろうか。度流は親の最期を思い出しては泣き喚き、暴れた。それで優音に怪我をさせたことまであった。それでも優音は、度流を抱きしめ続けてくれたし、手を放さないでくれた。
 人に心ない言葉を投げられても、優音はずっと味方でいてくれた。度流にとって、優音は度流の全てだ。優音がいなければ、今の度流は存在しないだろう。
 その感謝の気持ちを伝えたくて、今回の題材に選んだのだ。入賞するかどうかはわからないけれど、優音と一緒なら、大丈夫な気がした。
 みんなに伝えたかった。この子が、僕の大好きで大切な人です、と。

 

 春になり、進級して、度流と優音は高校二年生になった。度流は美術部、優音は電脳科学部と異なる部活だったが、共通の後輩ができた。
「いやー、見事に最優秀賞かっさらっていったじゃないですかぁ、せんぱーい」
 ちょっと間延びした声。振り向くとそこには美術部に入部してきた後輩の海月みづきくららがいた。
「くららちゃん、今日は美術部こっちにいるんだ」
「まあ、そもそもの所属は美術部ですし、先輩の彼女さんとは趣味でやってる『GNSからの脱却』の議論で盛り上がってるだけなんで」
 いちご牛乳のパックをぺこぺことやっているくらら。つまらなそうにしている彼女は淡いミントグリーンの髪をしており、ショートカットにしているものの、左目を隠しているというミステリアスな雰囲気の容姿をしている。
 ただ、度流はその姿をちら、と見て、渋い顔をした。
「くららちゃん、へそくらいは仕舞いなよ」
「えー、だって蒸れますもん」
「まだ春だよ?」
 夏ならまだしも、と度流がくららに指摘したのは、くららの着崩しに着崩した制服姿である。
 くららはブラウスのボタンを上二つ、下二つ外しており、襟元の露出はもちろん、へそ出しまでしている状態である。本人は蒸れる蒸れると言いながら、厚手のだほだほのカーディガンを羽織り、萌え袖なるものにしているのでよくわからない。
 ざっくり言ってしまうなら、くららは変わり者だった。服装も生徒指導が何度も入っており、生徒指導要注意人物ブラックリストに入っていること請け合いだろう。
 ただ、スカート丈だけは守っているので真面目なのか何なのか。
 くららが変わり者なのはもう一つ、GNSを導入していながら、GNSに頼らない、GNSの補正に抗う、という普通なら考えられない行いをしていることだ。くらら曰く、「GNS頼りになるのは危ないからこそ、GNSを導入しつつも、GNSを使わない選択肢を持つ」というGNSのゲシュタルト崩壊を起こしそうな思想のためである。
 例えば、GNSでは視界の色彩補正の他にも、線を真っ直ぐに引きたいときや、綺麗な曲線を描きたいときなどに滑らかに描けるよう、補正がかかるようになっている。くららとしては、それはなくてもできることだから、使わないでやろうよ、ということらしい。
 それはGNSのオンオフ機能でどうにかできるのでは、という話があるのだが、GNSのオンオフで決めるには「精神性の自由」が欠如しているらしい。自由意思云々と小難しそうな話を聞いたが、度流には理解できそうになかったが、くららのその思想に優音が関心を持ち、仲良くしているので、度流もくららと仲良くしている。
 それまで優音は男友達はもちろんのこと、女友達さえ作ろうとしなかった。「私には度流くんさえいれば充分だもの」と彼女は言うが、年頃の女の子だ。一人や二人くらい、同性の友達がいたっていいだろう。そこにくららが現れたので、度流は正直ほっとしている。
 見た目は問題児だが、根はしっかりしていて優しい子だ。いい子だからこそ、自分たちのパーソナルスペースに入れている。
「そんなことより、先輩の絵、えらい騒ぎじゃないですか。朝のニュースでも報道されていましたし、慰霊塔にも展示されるんでしょう? ……ま、また変な絵描いてるとは思いますけど」
「変かな、やっぱり」
 度流が首を傾げると、くららが慌てたように両手を前に突き出し、ぶんぶんと横に振る。
「そんじょそこらの有象無象が言うのとは違う意味ですよ。あのー……『塔と少女』って作品に描いてあるの、先輩の彼女さんですよね?」
「うん。それがどうかした?」
 自信に満ち溢れた度流の様子に、くららは怖気づいたようだった。呆気にとられているというか。くららは気まずそうに視線をさまよわせてから、度流に指摘する。
「なんで、自分の恋人を、あんな『普通の女』みたいに描けるんですか? そりゃ、恋愛フィルターかかってきらきらしてるのも嫌ですけど……普通、自分の恋人を絵にするってなったらもっとこう……凝りません?」
 くららの言わんとするところに疑問符を浮かべる度流。理解はしている。
 人から見れば、荒崎優音を知り尽くした人物が描いたにしては、些か簡素なものに見えるのだ。度流の画力が足りていないとかではない。むしろ、慰霊塔を描くために、優音のクオリティを下げたのではないか、全体的な統一感のために優音という少女のクオリティをわざと下げたのではないか、という疑念が、頭をよぎる。
 度流にとって優音とは、その程度の存在ではないはずだ。優音とも交流があるため、くららにはよくわかる。くららじゃなくたって、この二人の関係を思えば、優音という絵の中の少女のクオリティが度流のそれではないことに疑問を抱くだろう。
 果たして、度流はどのような回答を持ち合わせているのか、とくららは度流の顔を覗き込み、それからはっと息を飲んだ。
 藤色の目にはありとあらゆる優しさに満ちた光があって、口元は緩やかに微笑んでいる。絵画のような、美しさ。
 それから、愛おしい言葉を発するように、ぎゅ、と目を瞑って、度流は告げる。
「だって、僕にとって、優音ちゃんは普通の女の子だもの」
 ……手も足も出ない。くららは端的にそう思った。
 度流と優音の関係が絶対的すぎて、他者の立ち入る隙など、ありはしない。そうわからせられる言葉で、絵だった。
「なるほど。で、絵の展示は今日からでしたよね、先輩」
「うん。優音ちゃんと一緒に見に行くんだ」
「息をするようにデートしますね、先輩たちって」
 くららの声色には多分に呆れが滲んでいたが、そんなこと、度流は気にならなかった。
 それより、新たな不安が芽生えていた。
 くららの指摘から、優音が度流の絵を気に入ってくれないかもしれない、という、とんでもない杞憂が。

 

「度流くんの絵、とっても素敵ね!」
 優音は大絶賛だった。
 優音はGNSを通さないことでどうの、海月さんの思想がどうの、と絵に細かい評論を述べていたが、度流の耳にはほとんど入っていない。いざというときは携帯端末CCTの録音機能で録ったものを後から聞き返せばいいだろう。
 度流にとっては、優音が度流の絵を見て喜んでくれていることが重要なのだ。そのころころと変わる表情の一つ一つを大切に脳裏に焼きつける。GNSがあれば、一瞬で呼び起こせる記憶かもしれない。けれど、度流自身の目で見て覚えること、自力で思い出せるように一つ一つを眺めることが、度流にとって重要だった。
「度流くんの作品が一番輝いているね」
「美術展は写真不可なのが悔やまれるなあ」
「みんな度流くんの絵を見ているよ」
「ああ、ここの絵の具の色、綺麗」
 みんなは優音をずっと笑っているだけの穏やかな少女だという。そうでないことを度流だけが知っていた。その微笑みの一つ一つに込められた感情は、とても尊くて、愛おしい。
 自分しか、優音の変化がわからない、ということに、少しは優越を覚えるけれど、度流はそれより、みんなに優音の素晴らしいところをもっと知ってほしかった。だから今回の「塔と少女」も優音をモデルにしたのだ。
 優音はみんなと変わらない、普通の女の子だから、どうか、遠巻きにしないで、と。

 

「度流くん、何か悩んでる?」
 帰り道、優音にそう声をかけられ、どきりとする。度流はしどろもどろになりながら誤魔化そうと口をもごもごしたが、優音の澄んだ緑の目と出会うと、苦笑を浮かべた。
「優音ちゃんに、隠し事はできないね」
「そうだよ。私、度流くんのことなら、なんでもわかるんだから」
「ふふ。でも、僕に言わせたいんだね」
 度流の微笑みに、優音はくすぐったそうに首をすぼめる。おそらく、度流の思うところをわかっていての、この反応なのだ。
 敵わないなあ、と度流は口を開く。
「優音ちゃん、僕だけじゃなく、もっと周りの人と仲良くなってよ」
「……どうして?」
 本当にわからないかのように無垢な笑みを浮かべる優音。けれど、その宝石のような緑色が淀んでいるのを、度流は見逃さなかった。
 優音が度流のことをわかるように、度流も優音のことがわかる。だから、優音が望んで、度流以外との人間との関係を断っているのも知っていた。
 それは、嬉しい。嬉しいけれど、嬉しいからって、そのまま流してしまうのは違う。
「僕といることだけが、優音ちゃんの幸せの全てじゃないと思うよ」
 度流くんといることだけが、私の幸せの全てだよ、と普段ならすぐに返ってくるところだが、今回はそうならなかった。
「度流くん……」
 優音が、繋いでいた手を握り直す。度流も、そっと握り返した。
 これだけで、思いの全てが伝わればいいのに、と歯痒く思う。けれど、二人は互いのためならば、言葉を惜しむことはしない。
「私……私は、ね。いつか、私にしか見えていない景色を、度流くんに見せてあげたいの」
「うん」
「だから……待っていてほしいんだ。これは、私一人でやり遂げたいから。誰の手も、借りたくないから」
 優音には優音なりの目標や目的があって、交友関係を狭めているらしい。そのことにどこかほっとしたような、胸がざわつくような感覚を覚える。
「もうすぐ、見せられると思うんだ。だから、お願い」
「……うん」
 天真爛漫な優音の笑みに、否定の言葉を紡げるはずもなかった。
「あ、もう、家に着いちゃうね」
 二人の家は、隣同士だ。だから、家の前で、二人は別れる。
「また明日、学校で」
「うん、じゃあね」

 

 これが事件前夜の最後の会話になるなんて、思いもしなかった。

 

 翌朝、伯父たちに起こされて、何か慌ただしいな、と目覚める度流。
 ニュースが壊れたように繰り返していた。
『昨晩、御神楽ホテル爆破事件慰霊塔にて展示されていた作品「塔と少女」が何者かによって盗まれました。カグラ・コントラクター警察部門は犯人と絵画の捜索に注力しています。作者の彼苑度流くんに対しては――』
 伯父一家たちが愕然としているのに対し、首を傾げて、度流は淡々と学校に向かう準備をした。
 度流の淡白な様子をどう勘違いしたのか、伯父たちは終始度流に気遣わしげで、度流はなんだか居心地悪く、家を出た。
 いつもの通り、優音を迎えに行くと、優音の親にも気を遣われた。
「ごめんなさいね。優音もショックを受けたのか、もう先に出ていっちゃって……」
「そうですか」
 度流はそこで気づく。優音にとっては自分の姿が描かれた絵画だ。そんな特別な絵をどこの誰とも知れぬ者に盗まれて、ショックを受けていることだろう。
 度流は、絵がなくてもよかった。絵の中じゃなくて、本物の優音がいれば、それで充分だったから。
 優音に合流して、慰めなくちゃ。
 そう思ったけれど、学校に優音が来ることはなかった。
 その日の学校は、度流に対して腫れ物に触るような態度を取るものだから、度流も居心地が悪く、部活を休んで帰ることにした。
 優音に会いたい。
 優音さえいれば、他はどうでもいい。
 その想いだけで、慰霊塔へ向かう途中――
「危ない!」
 ぱしゅ、と音がして、それとほぼ同時に現れた少女が空に手を切る。突き飛ばされた度流はそれを見ていた
 空間に〝裂け目〟のようなものが開き、飛来していた銃弾とおぼしきものがその〝裂け目〟に吸い込まれていく。咄嗟に身を固くした度流に銃弾が当たることはなかった。〝裂け目〟に吸い込まれた銃弾は、どこかへ消えた。
 超常現象。GNSの普及によって、激減したそれを度流は目にした。目にした上で理解できなかった。「今何が起こったのか」
「何? 一般人が狙撃されるなんて、物騒ね。それとも一般人に見える系統のヤバい人?」
「い、一般人です……」
 少女から告げられる「狙撃された」という事実。つまりは、命を狙われたということだ。信じがたいが、度流は銃弾らしきものを見てしまっている。
 いや、謎の〝裂け目〟に吸い込まれたから、銃弾だったかどうか、わからないのだが。
「君は、誰?」
 度流は自分を助けてくれたらしい少女に声をかける。少女は淀みなく答えた。
「私は虹野にじのから。あなたは?」
「彼苑、度流」
「そう。じゃあ、度流。気をつけなさい。狙われているのか、たまたまなのかは知らないけど、厄介事の雰囲気しかしない」
 空と名乗った少女はさばさばという。
「ただの一般人ってだけなら、ご丁寧に狙撃手の暗殺者で殺そうとしないでしょう。あなたも自覚しないうちに、何かに巻き込まれているんじゃないの?」
 その指摘に、そわ、とする。それは度流にとってはどうでもよかった「絵画盗難事件」を脳裏によぎらせるのに、充分すぎる言葉だった。
 だが、何故?
「僕は絵を盗まれただけだよ」
「絵?」
「慰霊塔の展覧会で飾られた……今朝ニュースになったんだけど」
「ああ、御神楽関係の話は嫌でも耳に入るからね。関係者だったの」
「うん。……でも僕は、絵を描いたってだけで」
「そうね、絵を売って儲けたいなら画家を殺すのはおかしいし。盗むのはわかるけど」
「わかるの!?!?
 思わず度流が大きめの声でツッコむ。空は明らかに「あ、まずった」という顔をした。
 わざとらしく咳払いをし、空は続ける。
「あとは御神楽への嫌がらせくらいにしかならなくない? 慰霊塔って御神楽の建物でしょ? ……あるいは、御神楽の自作自演?」
「それはないよ」
 空の発言に、穏やかだった度流の声色が変わる。空は目線だけをつ、と動かし、度流を見た。
 その薄紫の目には熱意が籠っている。
「御神楽陰謀論とか、アンチ御神楽が消えないのはわかるけど、御神楽はそんなことしない。だって、御神楽が目指しているのは世界平和だよ? どうして平和のために人を殺さなきゃいけないの?」
 御神楽、と一般的に呼ばれるのは「御神楽財閥」と呼ばれる超巨大複合企業である。その御神楽財閥が「世界平和」を掲げていることは、誰もが知るところだ。
「……綺麗事ね」
 空の呟きにも怯むことなく、度流は続ける。
「御神楽はテロで親を失った多くの子どもを救ったよ。僕も救われた一人だ。生活費の補助はもちろん、学費、医療費の補助。怪我などで体の欠損があった人への義体化支援。心療内科受診のための補助やケアのためのカウンセラーの手配。十二年経っても、御神楽は孤児への支援をやめていない。本当に、平和を目指しているからだよ。御神楽は素晴らしい組織なんだよ」
「……ふぅん」
 空が興味なさそうな声を出す。度流はむっとしたが、一気に答えたら頭が冷えたので、語るのをやめる。
「なんで御神楽を信じないの?」
「どれだけ思想が立派でも、その末端全てにまでその思想で染められるわけじゃない。規模が大きければ大きいほど、その末端は腐りやすいものだよ」
「通報していい?」
「へぇ、してみれば?」
 でも、私仮にも命の恩人なんだけど、という空に対して、度流は冗談だよ、と笑う。
「真顔で冗談言うの、わかりづらいし、あんまり面白くないよ。――ま、君が御神楽を盲信してるのはわかったけどさ、御神楽じゃないにしても、狙われてるんなら、今後も何かあるかもしれないから、気をつけるに越したことない」
「それは……うん」
「もしかしたら」
 空の呟いた可能性に、度流はぞっと鳥肌が立った。
「あなただけじゃなく、あなたの大切な人も巻き込まれるかもしれないから

 

 そこからは、どうやって帰ったのか、覚えていない。ただ、自宅より先に、隣の荒崎家に向かった。
 優音は、まだ帰っていない、と言われ、CCTで優音を呼び出すも、音信不通。
 眠れないまま、夜が明けた。

 

to be continued……

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