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No name lie -名前のない亡霊- 第3章

 

前回までのあらすじ(クリックタップで展開)

 彼苑かれその度流わたるはテロで親を失った。そのテロから十二年。高校生になった度流は人とは少し違った見え方のする目を生かして、美術部に所属し、絵を描いていた。
 高校二年生の春、コンクールで最優秀賞を取った度流の絵が展示会場から盗まれる事件が発生。それが報道されたのと同巡の三日目に差し掛かる頃、度流は何者かに命を狙われ、「虹野にじのから」と名乗る不思議な少女と出会ったのだった。

 恋人の荒崎あらざき優音ゆねが行方を眩まし、動揺する度流。度流は優音の幻影と話すようになり、様子のおかしさに、周りから遠巻きにされるのだった。
 度流の様子を案じた後輩の海月みづきくららが探してくれた手がかりを元に優音を探しに行く度流だったが、再び襲撃に遭い、中学時代の同級生天辻あまつじ日翔あきとに助けられる。
 日翔から「少しは人を疑え」と言われた度流は、惑いながらも、くららへの疑念を募らせていくのだった。

 

第3章「嘘を拭う」

 

「度流くんに紹介したい子がいるの。面白い子だよ」
 そんなことを言って、優音が誰かを紹介してくるのに、ひどく既視感を覚えた。そういえば、日翔を紹介されたときも、全く同じことを言われた気がする。
 けれど、紹介された人物を見て、度流はひどく驚いた。
 淡い色の抜けたぼさぼさ髪。前髪が野暮ったく、目付きも悪い。制服も着崩しており、だらしない印象が全体的にある。が、その人物の何を刮目すべきかといえば、女の子であることだ。
 優音は度流が他の女の子と関わるのを嫌がる。恋人には自分だけを見ていてほしい、という思いは度流にも理解できるものであるし、普段大人しくて淑やかな優音が、自分にはそんな愛らしい一面を見せてくれることが、度流の中の優音への思いをどんどん膨らませていくから、特に注意することもなかったけれど。
 そんな優音が自ら度流に女の子を紹介するなんて、と驚いた。確かに見た目の野暮ったさが否定できないこの女の子は、人好きするような子ではないように見えるし、性格も明るくはなさそうだ。
 が。
「ぁ……ガチで本物の彼苑度流!? うわ、すごい、話には聞いてましたけど、マジか、すごい、すげえ……あの、握手してもらっても?」
「へ? え? え?」
 あまりもの豹変……というか、テンションの爆上がり具合に、度流はちょっと引いた。だが、度流は見ていた。この女の子は度流がドン引きしたことをわかっている。わかっていてなお彼女は止まらないのだ
「『止まない炎』はもちろんのこと、『明けの燈』や『嘘に咲く花』とかが好きで、彼苑さんの大ファンなんですよ!」
「わ、僕のファンを名乗る人で『明けの燈』や『嘘に咲く花』が好きっていう人初めて見た……」
 度流が出した作品で賞をとったものは数々あるが、やはり有名なのは、五歳に出した「止まない炎」である。度流のファンを名乗る芸術評論家のような者たちは、まず「止まない炎」を語らずして彼苑度流を語れないだろう、と述べるが、それ以外の作品が話題となることは少ない。
 つまり、「止まない炎」以外の作品はマイナー作品ということだ。度流が提出して、賞をもらった際に、話題になるが、三巡もすれば忘れられる。度流の絵は評判がいいが、それでも度流自身がまだ子どもということもあって、そこまで大きなブームを呼ぶことはない。
「いや、何言ってるんですか! 愛好家マニアの間じゃ人気ですし、模倣コピー作品が出回るくらいには業界に影響及ぼしてますよ。ポップな漫画やイラストに比べたら、嗜む人の比率が低いってだけで、充分偉人ですよ」
「そうかな……というかやけに詳しいね」
「度流くんのファンなんですって」
 優音が説明をつけるが、それはもう言われなくてもわかった。
「私は電脳科学の関係で知り合ったんだけど、美術部に入るって聞いたから理由を聞いたの。そしたら、度流くんのこれまでの作品、公表されているものは全部把握していて」
 そこまで聞いて、度流はなるほど、と思った。優音が「面白い」とこの女の子を評したのは、優音に匹敵とまではいかないまでも、度流のことをここまで把握している人間というのは確かに珍しい。
 優音はそういう相手にはそれとなくマウントを取って蹴散らすはずなのだが、優音が度流に紹介したということはそういう俄ではなく、本物と判断されたのだろう。優音のお眼鏡に敵うとは、かなりすごい。
「? でも電脳科学の関係で知り合ったって……」
「そうそう。面白いことを考えている子でね。あ、名前の紹介がまだだったよね」
 優音が目配せすると、女の子は軽くお辞儀をした。
「海月くららって言います。よろしくお願いしますね、彼苑先輩」

 

 ぱちりと目を開くと、まだ夜中だった。あまり眠れなかったらしい。眠気もない。まあ、横になっているだけでも疲れは取れるらしいから、と度流は天井を眺める。
 ぼんやりとしていると、快くない感情が、度流の中に沸き上がってくる。
 ――くららが度流の命を狙っているかもしれない。
 どうして、とは思う。そんなことをするような子じゃない、何度も何度も反芻するが、それと競り合うように二巡連続で殺されかけたんだぞ、という事実がのしかかってくる。日翔に言われた「もっと人を疑った方がいい」という言葉が、思いの外、重く受け止められていた。
 これが、優音だったなら、度流は疑う余地もないと悩むことはなかっただろう。だが、優音以外の人間であり、自分の命がかかっているとなると、さすがの度流も慎重になる。
 くららが度流の命を狙う直接的な理由はない。ないはずだ。だが、もしもを考えるなら、くららは誰かに脅されているのかもしれない。そうだとしたら、納得がいく。あってほしくはないが。
 何故を考えても仕方ない。そもそも度流には自分が命を狙われる理由もわからないのだ。恨みを買うようなことをした覚えもない。あるとしたら、所在が確認できない優音が悪者に拐われたとして、人質交換くらいなものだろう。ただ、それなら度流や優音の両親に連絡があるはずだ。今のところ、それらしいことは起きていない。
 くららも人質を取られている? と考えたが、それにしてはくららは平常運転すぎる。家族などを人質にされたら、もっと顔や仕草に出そうなものだが……
 そこで新たな疑問が首をもたげる。
「くららちゃんの家族の話って、聞いたことないな……」
 くららとはそこそこ親しいと感じていたけれど、家族構成を始めとした「家族の話」を聞いたことがない。別に度流から踏み込む気もないが、くららと知り合ってからそれなりに経つのに、今の今まで、くららが家族の話を一切出さなかったのは何故だろう。
 いや、この際「何故」はわからなくてもいいのだ。せめて、くららが白か黒かの確証を得たい。
 目はすっかり冴えてしまった。諦めて、度流は起き上がり、CCTを開く。……そういえば、ともう一つ、度流のものと同じ型番で色違いのCCTを取り出した。
 おそろいにした、度流と優音のCCT。今日、慰霊塔の前で拾った優音のものを開いてみる。充電がほぼ満タンだった。そこで何か、引っかかりを覚える。問題なく起動したことに、何故引っかかるのだろう。
 違う。充電があるのが引っかかるのだ。優音が行方を眩ましてから、丸四十八時間が経とうとしている。技術力の向上はあれど、外部端末のバッテリー消費はある。丸二巡で、充電もせず、バッテリーがほぼ満タンというのは不自然じゃないだろうか。しかも度流と優音がおそろいとして買ったこの端末は型番がだいぶ古く、優音も度流も長く使っている。
 それに、ずっと慰霊塔の、あんな目立つ場所にあったのなら、他に誰か気づいて、拾っていてもよさそうだ。つまり、置かれていたのは短時間、少なくとも、くららが電話をかける頃には、あの場にあった。
 優音が歩いていて落とした、という可能性はあり得る。だが、それなら何故優音は帰ってこないのか。確かに、自分の姿が描かれた絵が盗まれたら、ショックを受けるのは仕方がない。けれど、我をなくすほどだっただろうか。普段の優音なら、もっと理性的な行動をとるか、度流にとことん寄り添うはずだ。
 朧気だった違和感がどんどん形を明らかにしていく。そうしてどんどん、疑惑も膨らんでいく。
 優音のCCTは故意にあそこに置かれた。だとしたら、充電のことは辻褄が合う。もし、くららが置いた本人だとしたら、調べるまでもなく位置を知っていてもおかしくない。度流の前でわざわざ通話したのは偽装のためとも考えられる。
 ……というところまで考えて、頭が痛くなってきた。度流は人を疑うのが苦手というか、生理的に無理なのだ。特に親しい人間相手であればあるほど、疑うという行為に疲れてしまう。こうして、拒絶反応のように、頭痛がしたり、眩暈がしたりするのだ。それくらい、人を疑いたくない。
 けれど、疑わないと、さすがに命と天秤にかけたら、命の方が重い。
 それでも、人を疑うことのハードルは度流には高い。どうすればいいのだろう、とどん詰まりになってしまう。
『大丈夫だよ、度流くん。度流くんは、私が守るからね』
「でも、君は今、傍にいないでしょう」
 聞こえた声にそう返して、悲しくなった。
 優音がいないだけで、自分はこんなに駄目になるのか、と。

 

 悩んで、悩んで、朝を迎えた。当然、寝不足である。
 天辻くんと顔を合わせると碌なことにならないな、と度流は日翔の存在に責任転嫁をしつつ、二つのCCTを見下ろした。
 あれから、優音のCCTを調べて、おかしなところはいくつか見つかった。度流があれだけかけた通話の記録が一つも残っていないのだ。常に鬼電をしていたわけではないが、度流は確かに通話をしているのだ。そのログが一つも残っておらず、くららがかけたログだけが残っているのは明らかにおかしい。誰かが意図的に消したのでなければ、ログが残っていないのはおかしいのだ。
 このログの件を見ると、くららは学校にいたはずだから、直接消すことはできないので「犯人」の候補から外れる。が、CCTを慰霊塔前に置いた人物と度流を狙撃した人物が違う可能性だってある。それなら共犯として、くららが犯人である可能性だってまだあるのだ。
 更におかしいことといえば、優音のCCTにはロックがかかっていたのである。十六桁のパスワードによるロックだ。パスワード認証より指紋認証などの方がセキュリティは高い、というのは一般論だが、指紋認証を優音はあまり好まなかった。
「一度、指紋認証にしてみたんだけど、どの指の指紋で登録したかわからなくなるし、登録した指でも認証が通らないことがあるんだよね。古い型番だから、そこまで精度が高くないのかもしれないけど……いざというときにぱっと開けないのはね」
 優音がそう語っていたのを思い出す。それに、度流も試したが、認証が渋かった思い出がある。とはいえ、十六桁もパスワードを考えるのはしんどい。
 優音は十六桁のパスワードをいくつか作り、それをランダムに使い回しているらしい。才女である優音らしいエピソードだ。
『度流くんもいざというときに開けるようにね、二人の記念日にしてるんだ』
 度流の脳内に刻まれた優音との会話。度流は優音ほど頭の出来は良くない。それでも、日付はパスワードに適していないことは知っていた。
 数字パスワードを設定するときは誕生日を設定しない方がいい、というのは度流でも聞いたことがある。そんな単純な設定にすると、悪意あるハッカーには悪用されてしまうからだ。ハッカーに限らず、拾った人間に悪意があれば、悪用は簡単にできる。
 パスワード認証が推奨されないのは、指紋や網膜などと違い、特別な何かがなくても誰にでも解けるからだ。何故ならパスワードのパターンは膨大といえど、限りがある。短いパスワードであればあるほど、パターン数は減り、特定までの道のりも短くなる。
「まあ、十六桁を特定するのは至難の業みたいだけど……」
 それを六パターン作って、使い回しているという優音のセキュリティ意識はそれなりに高いと言えるのかもしれない。
 それを全て度流に教えているのは、度流を信頼しているからか、本当に「いざというとき」が訪れることを予期していたのか……あまり考えたくない。
 つまり、通話履歴を消すにも、十六桁パスワードを突破しないといけない。優音からパスワードを聞き出せば、もしくは優音本人に開けさせれば、可能だろうが……本格的に、優音が誘拐されたというのが現実味を帯びてきて、度流はぞっとした。
 パスワードを教えられている度流でさえ、六パターンのうち、三つ目でようやく突破できたような認証である。それを、一体誰が……
 そして、やはり、くららに繋がるものがない。くららが犯人じゃない確証もない。
 度流は少し迷った。命を狙われている身で、単独行動は危険だ。先日は日翔や空がいたから偶然助かったようなものだ。少なくとも、誰かと一緒にいた方がいい。あるいは、警察組織カグコンに連絡をするべきか。
 いや、優音のことは優音の家族が届出をしているはずだし、命を狙われている、と言って、今度は何も起きなかったら、度流は自意識過剰の勘違い少年になってしまう。
 ――一か八か。
 度流は自分のCCTを手に取り、とある人物を呼び出した。

 

 家を出て、バス停まで歩く。途中に、初めて見るような標語看板があった。
「全てに自由を! 赤梨あかり協会」
 随分抽象的だなぁ、と首を傾げる。
 すいっと視線を移せば、同じ装丁の標語がそこかしこに散らばっている。「人は等しく自由という救済を与えられねばならない」「自由は法で認められた人間の権利である」などなど、なんだか何を言いたいのかわからない標語だ。
「せんぱーい」
 考えていると間延びした声が聞こえた。いつものようにだらしなく制服を着崩した少女がやってくる。
 左目の隠れた淡いミント色をしている髪の少女はあろうことか、制服に校章すらつけていない。これは毎日のように生徒指導室に呼び出されるのも納得だ。――度流は海月くららに軽く手を振って応じた。
「おはよう、くららちゃん」
「おはようございます。珍しいですね、先輩が人を呼び出すなんて」
「そうかな……そうかも?」
「なんですか、それ」
 くららがくすりと笑う。度流は目をぱちりとした。
 くららのことを疑えない理由の一つ。それは度流の目に映るくららの姿が鮮明で綺麗なことだ。度流は人の顔をあまり覚えられない。それは人と違うものを見ることがあるからだ。例えば、いつか、くららが度流の描いた優音の絵を見て「どうして普通の人と変わらないような平凡な風に描いたのか」という疑問を口にしたような。度流は人の顔を正常に認識できないのだ。
 度流としては正常に見えているつもりだから、断定するのは語弊があるか。度流は人と見え方が違うのだ。だから、人の細やかな感情が色や模様、形となって、度流の目には「人」の姿の情報として乗算される。
 くららの姿は何も乗算されていない状態で見える。そのことをくららには嘘や後ろ暗いところがないからだと度流は捉えている。
 だからこそ、くららのことは信じたい。というか、度流は自分が見ている、自分の「目」を信じたいのかもしれなかった。
「あ、そのCCT、先輩のと色違いってことは、彼女さんのやつですか? ……あれ、でも」
 薄紫の端末を見て、くららは怪訝な顔をする。
「それを先輩が持ってるってことは、見つかったのは端末だけ……ってことですか?」
 これで演技だとしたら、白々しいにも程がある。そんなことを思ったけれど、度流はただ頷いた。
「優音ちゃんの端末しかなかった。とりあえず、回収してきたけど」
 敢えて、昨日、襲われたことは言わない。日翔の「少しは疑え」という言葉が頭の中で鳴っている。
 疑いたくないけれど、警戒はしていた。何がきっかけで今度流の身に降りかかっている事態とくららが結びつくかわからないから。もし優音がいなくなったことにくららが関係するのなら、いくら可愛い後輩でも、許すことはできない。
 人を疑うことに慣れていない度流が取れる手法は「出方を伺う」くらいしかなかった。
「先輩とおそろいのものを彼女さんが簡単に手放すわけがないでしょ。中坊んときに交換したエンゲージリングも毎日校則違反にならないようにしつつ、身につけてきてるくらいなんですから」
 まあ、エンゲージリングを身につけるのと、CCTをおそろいにするのは意味の重さが段違いだが……くららの言う通り、優音がわざわざ「度流とおそろい」として気に入っているCCTを落として放置しておくとは思えないのだ。
 ここまでは想定通りの反応だ。度流はくららの続く言葉を待つ。
「やっぱりGNS入れてないの、不思議ですよね。……あ、すんません、あたしの力が及ばず。でも、GNSは脳に入れてるから、それを探知できれば、それはそのまま彼女さんの情報になったはずなのに」
「そうなの?」
「といっても、高等技術ではありますけどね。彼女さんが兼ねてより先輩に言っていた通り、GNS導入は危険も多いです。健常者であればあるほど、入れる必要性はないですよ。……なーんて言ってたら、友達いなくなりましたけどね」
「どうして?」
「現代じゃ健常者の方が少ないからですよ。義体の発達は人が五体満足で生きられないからこそ起こったものです。例えば、バギーラレインが降り注いでいた頃。バギーラレインってつまり隕石ですからね、隕石。隕石にぶつかって生きてる人はまずいないですし、生き延びたとしても、腕の一本くらいは失う、それが当たり前だった時代が長く続いた。それが義体の発展に繋がってます。
 GNSは義体発展に伴い、義体の操作をよりスムーズにするために取り入れられた電脳です。御神楽がバギーラリングの制御に成功した現代じゃ、五体満足でいられるのに、GNSや義体が怖いなんて、昔の人らからしたら、贅沢者って感じですよ」
 それでも、とくららは続ける。
「怖いものは怖い、でいいと思うんですけどねえ……だからあたしは、GNSからの脱却を唱えているわけで」
「ああ、でも、精神性疾患の人はGNSがあると便利っていう話はあるよね」
 ふと思い出し、度流が口にすると、ちょうどバスがやってきた。くららはそうですね、と曖昧に答えながら、度流と同じバスに乗る。ちょうど通学、通勤時間のバスはそこそこ混んでおり、度流とくららは吊革や手すりに掴まり、立ちんぼになった。
「最近は特にそうですね。人前だと上手く話せないとか、元々声が出ないとか、声の出し方を忘れたとか、症例はいくらでもありますし。
 他にも、看取りのときにGNSでの会話ができると遺言とかちゃんと残せるって、案外評判なんですよ」
 それは、聞きたくなかったような気がする。

 

「逃げて!!」
「走れええええええええ!!」

 

 未だに度流の脳裏にこびりついて離れない両親の最期の言葉。最期の言葉というのは、呪いのようにまとわりつくものじゃないだろうか、と度流は思いかけ、首を振る。「普通」はあんな失い方をしないのだ。
「先輩? 大丈夫です?」
「おや、坊っちゃん、顔色が悪いね。座るかい?」
「だ、大丈夫です」
 洒落っ気のある老婦人に気遣われ、度流は慌てる。そんなに具合悪そうに見えただろうか、と呼吸を一つ、意識する。
 そのとき。
『度流くん』
 優音の声が聞こえた。
 ふわり、と優音の白い手が伸びてきて、度流の目元を覆う。温かく、優しい光。それが、度流の目を塞いでくれる。
『度流くんはそれ以上、知らなくていいよ。大丈夫、無理しないで。私が知っていれば、度流くんは知らなくてもいい』
「それは……」
 今まで通りなら、それでよかった。二人でお互いのことを補い合えばよかったから。けれど……
「それは、違うよ」
 度流はそっと、優音の手を振り払う。
 本当は幻想であれ、優音の言うことを否定するなんてしたくなかった。それでも、このままではいけない、と度流は思ったのだ。

 

「御神楽じゃないにしても、狙われてるんなら、今後も何かあるかもしれないから、気をつけるに越したことない」
「ちったぁ人を疑った方がいい。命狙われてんだから、警戒はいくらしたって足りないだろ」

 

 空と日翔。仲がいいわけでもない二人にも、警戒はしておけ、と忠告された。その方がいい、と度流も思う。
 そのためには、目を塞いでもらっていることに甘んじず、自分で知らなければならない。今まで知らなかった世界、知ろうとしなかった世界に踏み出さなければならない。
 そのためには、優音に甘えていてはいけなかった。苦しくとも、振り払わないと。
「先輩?」
 心配そうに隣のくららが見上げてくる。度流はそれに、なんでもないよ、と微笑んだ。
「でも、くららちゃんはGNSからの脱却を唱えているのに、GNSを入れてるんだよね? 抵抗とかなかったの?」
「少しはありましたけど、それどころじゃなかったですから。それにあたし――」
 くららが空いている手で左目を隠す前髪をかき上げた。
 ひ、と下の方で老婦人か誰かが悲鳴を上げた気がした。無理もない。くららの露になった左側の顔には、見るも無残な火傷痕があったのだから。
 それに――
「義眼なので、GNSでの制御がないと、ね」
 そう笑ったくららの左目は、青い右目とは違う色。赤みがかった紫だ。気にしなければ不自然には感じないけれど、まじまじと眺めると、左目と右目は違うということがよくわかる。その証のように、色が違った。
 何を口にしたらいいかわからない。度流が目を見開いていると、悪戯が成功したように、くららは嬉しそうにした。子どもみたいな無邪気な笑み。
「あはは、先輩、あの人以外にも、そんな顔できるんですね」
「……からかわないでよ」
 そこからは静かに、バスが揺れるのを感じていた。が、不意にくららの体が傾ぐ。
 度流が慌てて受け止めると、とさり、とスクールバッグが床に落ちた。よく見ると指先が痙攣している。顔を見ると、蒼白な色をしていて、瞼は閉じられていた。時々、何に反応しているのか、ぴくぴくと動く。
「くららちゃん、くららちゃん」
 体を揺らすと、ん、と寝惚けたような声が返ってきた。
「あ、すみません。……結構ヤバいのかな……」
「大丈夫? 病気か何か?」
 火傷のことと言い、くららは普通ではない。本当はどこかに入院して安静にしていた方がいいのではないだろうか。
 だが、くららはくつくつと笑うだけだ。
「GNSからの脱却実験の代償ですよ。気にしないでください」
 困った顔をする度流が面白かったのか、悪戯っぽく、くららは唇を弓なりにする。
「それとも、キスでもします? ふふ、浮気だあ」
「……」
「いてててて、無言無表情れほっぺをつねらないでくらはいぃ」
 どれだけ「いい雰囲気」になろうと度流は一途なので、それを試そうとしたくららには地味ながらに痛めの罰が当たるのであった。

 

『度流くん、私を捨てないで』
 バスからずっと、幻影の優音がそう語りかけてくる。幻影なのに、健気だな、と思うと愛おしくて、触れたい、と思う。
 けれど、そこに優音かのじょはいない。だから代わりに言葉を紡ぐ。
「捨てないよ」
『じゃあ、なんで』
 決然と、度流は振り向いた。幻影は驚いたような顔をしていた気がする。
「優音ちゃん、今まで僕を助けてくれて、ありがとう。今度は、僕が優音を助ける番だ」
 度流の気持ちをわかったのか、単純に消えたのかわからないが、優音の幻影は姿を消した。
 優音を助ける。それを一番に考えないと。
 そのためには自分一人の力ではどうにもならない部分がある。そうして頼るのなら、くらら以外の選択肢がないのが度流の現状だった。空の連絡先は知らないし、日翔はああ言っていたが、日翔に頼るのはちょっと癪だった。
 慰霊塔や絵画が盗まれたことが絡んでいる以上、御神楽と少なからず関わることになるだろう。日翔が進んで御神楽と関わりたがらないことは明白だ。そんなことでいちいち揉めるつもりはない。
 それに……くららには度流だからこそ踏み込める一面があるのだ。度流の推測が正しければ。
 放課後、美術室に行くと、キャンバスに向き合うくららがいた。
 くららの手が、キャンバスの中を走り出した――と思いきや、歪に曲がりくねって、くららの手が脳からの指示に従わない……否、従えないかのように縦横無尽に動き回り、終いに、ぐさ、とキャンバスにペンを突き刺して、止まる。
「はあ、はあ、はあ……」
 くららの呼吸が荒い。少し遠巻きで見ている度流から見ても明らかなほどに、脂汗が滲んでおり、いつまで経っても呼吸が安定せず、手足も震えている。ソックスがたわんで、見えた素足には、目のそれよりも薄いが、火傷痕が見える。
 ゆらり、と持ち上げられた眼差しが度流を捉えた。度流が歩みを進めるのに戸惑っていると、くららの瞳が揺れる。瞳孔が大きさを定められないままであるにも拘らず、くららは度流の方へ、ゆらゆら歩み寄った。
「来たんですね、先輩」
「……大丈夫なの?」
 度流の問いかけにくららは気まずそうに目を逸らした。意味もなく、あー、と声を出し、それから言い訳のように告げる。
「上手くいかないんですよね、GNSを入れながら、GNSに頼らないって。頭おかしいとは何回も言われたんですけど、なんだろう、思いついた実験を成功させたいんですよ。電脳に頼らない未来にこそ、芸術の発展があるというか……先輩だって、真っ直ぐな線を引くのに、定規使いませんもんね。GNS入れてないのに。それと同じことをやりたいんですよ」
「……難しいことはよくわからないよ」
 度流は確かに、GNSを導入していないけれど、定規などの道具を使わず、直線を引く。見たままを描いているわけだから、度流は意識的に直線にしているわけではないが。
 くららの言いたいことは、わからなくもない。単純に言い替えるなら、度流みたいなことをしたいということだろう。だが、人は自分でしか在れず、他者には成れない。くららが逆立ちをしても度流には成れないように、度流もまた、くららには成れない。それでいい。
 くららは度流に成りたいわけではない。他の人と違う何かに成りたいのだ。そこまでは、度流もわかる。
「くららちゃんを否定したいわけじゃないけど、それはそんなに苦しんでまで、成し遂げなきゃならないこと?」
 度流がハンカチを差し出すと、小さく頭を下げて、くららがハンカチで汗を拭く。汗が拭われても、くららの顔色はとても「良い」とは表現できない。
「どうでしょうね」
 くららは笑った。自分のことなのに。
「とりあえずまあ、やりたくてやってるのは確かですよ。一応医者にも止められてますけど」
「じゃあやめなよ」
「嫌です。なんかこう、これはもはやあたしのアイデンティティーみたいなものなので。あ、でも死にたいわけじゃないから、死なない程度にはしますけど」
「……テロで亡くした、お父さんやお母さんのために?」
 度流の紡ぎ出した言葉にくららははっと目を度流の方に向ける。度流には、くららに微かにかかっていた霞が晴れたように見えた。――その分、より明瞭に、火傷痕が見える。
 くららの左目の周囲についた火傷痕。服で見えづらいが合間から覗く違う肌色。その火傷と、くららの年齢、度流の絵への関心を踏まえると、十二年前の御神楽ホテル爆破テロ事件に繋げられるように思えた。
 あの自暴自棄気味のテロで命を落とした人間は数知れず、怪我をした人間はもっと数えきれないほどいる。子どもだったくららが、全身を覆うほどの火傷を負っていても、何も不思議はない。
「なんでわかっちゃうんですかあ」
 くららはからからと笑った。なんでもないことのように「そうですよ」と肯定する。
「孤児になって、施設に入って、御神楽の支援を受けて、治療して、火傷痕もこんなに良くなったし、義眼もタダ同然で入れてもらえました」
「でも、全身火傷、しかも、あのテロでの補助なら、くららちゃんは全身義体にもできたはずだよね?」
 責めているわけじゃない。ただ不思議なだけだ。火傷痕の治療も、確かに御神楽からの支援を受ければ、負担が少なくできるだろう。だが、同じ支援なら、手っ取り早く全身義体にした方が早かっただろうに、と度流は思うのだ。
 くららは少し寂しそうな顔をする。それから、前を向いて答えた。
「でもこの肉体って、親からもらったものじゃないですか。もういないお父さんお母さんのことを思うなら、簡単に捨て去っていいものなのかなって。踏ん切りがつかないんですよ。こっちの目は、死んでたから、義眼にするしかなかったんですけど……動かせる肉体が、両親が血肉を分けてくれた肉体があるのに、それを捨てる、別なものに取り替える、なんてこと、簡単に、決められない……だって、親がもういないのなら、あたしたちそのもの、この体って、親が残してくれた遺品じゃないですか……!」
 ――その考え方はなかった。
 自分の肉体そのものが、親が授けてくれ、残してくれた遺品。親を亡くしたのは度流もくららも同じだ。だからこそ、響いた。
「……すみません、私情が入りすぎましたね」
「ううん、勉強になったよ」
 度流は、優音のCCTを取り出す。これを遺品になんてしたくない。
「くららちゃん、協力してほしいことがある――二つ」
「二つ?」
 不思議そうな顔をするくららに対して、度流は声をひそめる。
「まず一つは、優音ちゃんの捜索。優音ちゃんと深く関わりがあった人間っていうのは少ないし、僕と優音ちゃんの両方に関わりのあった人間っていうのは、もっと少ない。というか、今のところ、くららちゃんしかいない。だから、頼らせてもらってもいい?」
「それはもちろん! でも、いいんですか? 先輩が彼女さん以外の女と関わり合うなんて」
 その言葉に、度流は無表情でくららにでこぴんを食らわす。いて、とくららは目を瞑った。
「僕は優音ちゃん以外にそういう感情は抱かないので問題ないです。くららちゃんも知ってるよね?」
「ハイ、ヨクワカリマシタ」
「よろしい」
 ひい、と軽く悲鳴を上げながら、くららはでこぴんを食らった箇所をさする。言うほど痛みも痕もないが。
「それで、二つ目は?」
「くららちゃんのことを教えて」
 度流の頼みに、くららは軽く目を見開く。それから、くららは少し仄暗い笑みを浮かべた。
「そんなことでいいんですか?」
「うん。ただ、全部教えて」
「いいですよ」
 軽く答えるくららに、度流は微笑む。
 くららの言葉でくららを知り、見定める。
 それが自分にはできるはずだ、と度流は拳を握りしめた。

 

to be continued……

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おまけ

 


 

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