世界樹の妖精 第3章

by:蒼井 刹那   

  第3章 妖精と魔術師

 

 ――魔術師マジシャンの話をしよう。
 かつて、この世界には魔法使いウィザードがいたという。魔法使いは頭が良く、判断速度も速く、次々と世界から、一般人の常識から戦争というものを取り除いていった。
 その魔法使いが、弟子を持った。弟子は魔法使いほどではないが頭が良く、魔法使い以上に狡猾だった。さらに、魔法使いと決定的に違うのは使用する道具が魔法使いのものよりも新しく、より簡単に、下手をすれば一般人でも扱えるものだった。
 弟子は魔法使いから教えられた魔法をより簡単に扱えるもの、魔術に昇華させていった。
 それなのに、どこで道を誤ったのだろうか。
 弟子は力の源を悪用し始めた。いや、それは語弊があるだろう。指先一つで様々なものを操ることができるその力に、夢中になってしまった。
 それを見た魔法使いは嘆いた。
「おお、何故私の弟子はこうも道を誤ってしまったのか」
 そう言って、魔法使いは世界から姿を消した。
 残された弟子は自分こそが新しい魔法使いだと自負した。自分にはできないことは何もない、と。
 そうは言ったものの、世界は弟子を新たな魔法使いとは認めなかった。
 弟子のことを魔法使いほどではないが力を持つ者、魔術師と呼んだ。
 魔術師と呼ばれた弟子は激怒した。
「私は師匠を超えたのだ、その証拠に私が生み出したものを師匠は破壊できていないではないか」
 何をやっても現れない魔法使い。それを、魔法使いはいなくなった、だから自分が新たな魔法使いなのだ、と主張し続けた。主張すると同時にさらに多くのものを操り、自分の能力を誇示し続けた。
 それからどれくらいの月日が経過しただろうか。
 世界は変わった。
 一般人の常識の中から戦争というものが完全に取り除かれ、誰もが魔術を操り、生活するようになった。その中でも特に魔術を得意とする人間がかつての魔法使いの弟子と同じく魔術師と呼ばれ、今は存在しないと言われている戦争が実は自分たちの庭で勃発していることを知っていった。
 ところでかの魔法使いの弟子はどうなったのだろう。
 最初に魔術師と呼ばれた弟子は魔法使いがかつて使っていた道具を手にして魔法を極めることこそが本当に魔法使いになる方法だと考えた。そして長い時間をかけて魔法使いと同じ力を手に入れた。
 人々が魔法使いの存在を忘れ始めた頃、弟子は人々、いや、魔術師たちの前に現れた。
 魔術師たちに一つの試練を携えて。
 その試練を知った魔術師たちは色めき立った。
 何故なら、その試練の舞台となるのは――

 

 世界樹の監視官用ブースの一つで、一人の監視官が侵入者の撃退に当たっていた。
 侵入者が撒き菱のようにばらまく小規模なウィルスを一つ一つ潰しながら、確実に追い詰めていく。
 この程度の腕で、よく世界樹に挑もうと思ったな、などと考えながら封鎖したエリアの隅に追いやられたアバターに捕獲ネット状のデータを送り込む。その瞬間。
 視界にウィルス反応のアラートが表示される。
 なんだ、そんな予兆はなかったはずだ。
 そう思いマーカーの先を見上げる。
 そこにおぞましい姿イメージをもったウィルスが監視官を見下ろしていた。
 ぐばぁ、とそんな擬音が聞こえてくるような錯覚を覚える。
 AR表示のウィルスが視界を覆い、次の瞬間視界が一気に真っ白に染まった。
 同時に脳内に流れ込んでくる大量の情報。
 脳が焼けつくような錯覚。
 咄嗟に、世界樹にアクセスするためのケーブルを引き抜く。
 真っ白に染まった視界が赤く塗りつぶされていく。
 ぐらり、と体が傾くもそれを支える力が出ない。
 受け身を取ることすらかなわず、シートから床に転がり落ちる。
 その時になってようやく複数の足音が聞こえてきた気がしたが、確認することもできない。
 そのまま、赤く塗りつぶされた視界は暗転し、意識はそこで途絶えた。

 

 バタバタとせわしない足音が廊下に響き渡る。
 飲み終えたコーヒーの紙コップを握り潰し、匠海は野次馬精神で足音が向かっていった先に足を運んでみることにした。
 警察を呼べ、いやその前に救急車だ、そんな怒鳴り声が聞こえる。
 どうやら仲間の一人が侵入者の攻撃をかわしきれなかったのだろうと判断するが、救急車を呼べとは穏やかな話ではない。オーグギアにはもちろん安全装置の類もついている、救急車を呼ぶほどとなるとAR情報を滅茶苦茶に書き換えられて情報酔いしたか、さもなければ――
 まさか、と匠海は床を蹴った。
 他の手すきの仲間も野次馬精神で群がっているブースに駆け寄り、一応のリーダー権限で野次馬をかき分ける。
「おい、何があった!」
 野次馬をかき分けた先には、一人の仲間が倒れていた。
 意識はなく、耳と鼻から流れる血がことの重大さを物語っている。
「匠海か、ちょうど呼ぼうとしていたところだ」
 応急処置に当たっていた仲間が、匠海を見る。
「……脳を焼かれた」
 やはり。
 そうではないか、と予感していたがその通りだったとは。
「助かるのか?」
 馬鹿馬鹿しい質問だとは思ったが、念のため確認する。
 脳を焼かれて、命拾いできたとしてもこの世界樹で、いや、普通の人間として生きていけるはずがない。
 助かったとしても、この先重い障害を背負って生きていくことになるのだ。
 だからこの質問は適切ではなかっただろう。
「オーグギアとインプラントチップの連結を早い段階で切断したようだから脳死には至っていないようだがな。助かったとしても普通に生活できるかどうか」
「インプラントチップを攻撃するウィルス、か……ここの監視官はほとんどがインプラントチップとナノマシンの補佐を受けている、いずれはこうなると予測できたはずなのに……クソッ」
 思わず、吐き捨てる。
 オーグギアが一般普及してもうずいぶん経つ。一般的な使い方をする分には特に不自由はないが、それでもトラッキングに若干の誤差が生じることもある。その誤差すら許されない、コンマ秒単位の反応速度を求められる作業に従事する人間は誤差を極限までなくすために脳にナノマシンを注入し、それを統括するインプラントチップを埋め込む手術を受けていることが多い。
 この世界樹の監視官カウンターハッカーの大半もそうで、ほんの一瞬の判断を正確に実行に移せるよう手術を受けていた。
 リスクとしてはインプラントチップ、もしくはナノマシン自身の暴走によるAR情報のバグ、度合いによってはナノマシンのショートによる熱での脳の損傷が挙げられているが、人的被害が出たとしても世界樹は守られなければいけない、と言われている。
 それはともかく、インプラントチップを攻撃されるとは。
 しかし疑問も残る。
 インプラントチップ埋め込み手術は公にはなっていない。一部の高度な情報処理技術者、例えば世界樹の監視官といったような下手をすれば国家機密に触れるような人間やサイバー警察など基本的には公務員、それもそれなりの地位を持っている人間にしか手術は行われない。実際匠海が手術を受けたのも世界樹の監視官になった後だった。しかも手術の存在を知ったのは手術を受けろ、と言われたときなので、この情報の機密度がいかに高いかがうかがい知れる。
 つまり、インプラントチップを攻撃するようなウィルスを作ることができるのはこの手術の存在とインプラントチップに組み込まれたプログラムを熟知している人間だろう、ということである。
 確かにインプラントチップの存在が表沙汰になっていないとはいえ絶対に攻撃されない、とは言い切れない。どこでどの情報が洩れるか分からない現代、可能性はわずかでも存在する。
 それなのに、匠海は油断していた。いや、匠海だけではない。全ての監視官が油断し、慢心していたのだ。
 その結果が、仲間を一人失うという事態だった。
 救急隊員が到着し、倒れた仲間を運んでいく。
「……お前らよく聞け。今この場にいない奴らにも伝えてくれ。インプラントチップを攻撃するウィルスが発見された以上、このような事態は避けられないことになった。絶対に油断するな。そして絶対に感染するな。死にたくなければな」
 苦々しい口調で、周りに伝える。周りも事態の重さを再認識し、分かった、と持ち場に戻っていく。
 上に報告を上げないとな、とため息を吐き、匠海も自分のブースに戻る。
 オーグギアを世界樹に接続し、いつも以上に緊張して巡回に当たる。
 その視界の隅をちらり、と妖精がよぎるがいつも何かしら声をかけてくる彼女? も匠海の様子が違う、と判断し、空気を読んだかすぐに姿を消す。
 インプラントチップを攻撃した侵入者ハッカーは撃退できていないはず。
 誰がいつエンカウントしてもおかしくない。
 そう思ったとき、巡回エリアに違和感を覚える。
 あの侵入者か。
 緊張の度合いが一気に高まる。
 当たりであれ外れであれ、手を抜くわけにはいかない。侵入者であれば撃退しなければいけないし何かのバグであれば除去しなければいけない。
 エリアを隔離するプログラムを展開し、違和感を覚えたエリアを解除しない限り外から侵入も内側から脱出もできないように隔離する。
 隔離してからエリア内部にいるユーザーを洗い出すプログラムを起動、表示されるユーザーは自分と侵入者らしきものの、二人。
 だが、おかしい。
 普通、このプログラムを起動すれば侵入者のアバターが何かしら表示されるはずだ。それなのにアバターは表示されず、ただ誰かいる、という表記にしかならない。
 プログラムのバグか、と思うも自分のアバターは表示されているので違うだろう。
 侵入者を逃がさない程度に牽制しながら、匠海は記憶のページをめくった。
 アバターが表示されるのはオーグギアには必ずアバターが登録されているから。つまり、侵入者はオーグギアを介さず世界樹にアクセスしていることになる。
 オーグギアを介さずアクセスする、そんなことができるのは。
「クソッ、魔法使いウィザードか!」
 この時代、オーグギアの普及によってQWERTY配列のキーボードやマウスといったものを使ったコンピュータは過去の遺物と化していた。それでもこのコンピュータを好んで扱う人間はそれなりに存在し、オーグギアほど簡単ではないにもかかわらずネットワークにアクセスしてサーバなどを攻撃するハッカーも少なからず存在した。
 その、過去の遺物と化したコンピュータを使ってハッキングするハッカーのことを過去の慣例に倣い、魔法使い、ウィザードと呼んでいた。余談までに、その後継機ともいえるオーグギアを使ってハッキングするハッカーのことを魔術師、マジシャンと呼ぶのが一般的である。匠海も例に漏れず、魔術師と呼ばれているのは本人も理解しているところである。
 オーグギアのように無数のハッキングツールを瞬時に選択して使用する魔術師に対し、コンピュータを使用する魔法使いは確かにハッキングツールも多用はするが瞬時の判断でコードを打ち換えて全く違う機能を実装させたりするなどゲリラ戦に強い。対魔法使い戦が初めてというわけではないが、絶対数が少ないため苦戦は必至だろう。
 まさか、インプラントチップを攻撃したハッカーは魔法使いだったのか、そんなことを考えながら姿の見えない相手のトラップをかわしつつ追い詰めようと試みる。
 そこで、再び違和感。
 いや、既視感と言った方がいいだろうか。
 この相手と、昔どこかで戦ったような、そんな懐かしさがこみあげてくる。
 そう、それは小さい頃古い日本家屋の縁側で父親と新聞紙を丸めた刀で斬りあったような――
「ジジイ、またあんたか!」
 思わず絶叫した。
 叫んでから、慌てて周りを見てこちらを注視する仲間にすまん、と片手を挙げて謝る。
 すっかり忘れていたが、匠海の祖父は以前オーグギアの使い勝手を試したいといって世界樹にハッキングを仕掛けた猛者であった。それ以前は、いや、オーグギアを入手してからもコンピュータを使用したハッキングを好み、小さい頃の匠海に「こうすればこんな不具合インジェクションが出るんだよ」と教えてくれたりもした。
 別にハッキングするなとは言わないが、このタイミングで。
 それとも、祖父がインプラントチップに攻撃を……?
 いや、祖父に限ってそんなことはないはず。ハッキングを好むのも各種システムの脆弱性を見つけることが楽しいだけであり、それで誰かを苦しめることは決してなかった。遠い記憶だが、とある病院が悪意を持ったハッカーに攻撃されているという情報を入手した祖父は即座にその病院にアクセス、ハッカーを突き止め警察に突き出したのだ。そんな祖父が人を傷つけることをするはずがない。
 ただ、タイミングが悪かっただけなのだ。
 逃げられないように牽制しつつ、匠海は裏コマンドを使ってオーグギアの回線を分岐させ、祖父に対して回線を開いた。
 すぐに、祖父が応答する。
《おお匠海、よく分かったな》
「分かったも何も何回侵入するんだこのクソジジイ! しかもタイミングが悪すぎる、今すぐアクセスを解除しろ!」
《儂がこうやって侵入できるということは世界樹もまだまだセキュリティホールが多いのう……》
 匠海の焦りなど全く解さず、祖父は暢気にここの侵入経路は、などと供述してくる。
「今はそれどころじゃない、後で警察まで迎えに行くからその時に詳しく説明しろ」
《……何かあったのか?》
 全く、気づくのが遅い。
 しかし何が起こったかを話すことなど情報漏洩になるためできるわけがない。
 ただ、ちょっと厄介なことがな、とだけ伝えると祖父はなるほど、分かったと応えた。
《ちょうど警察も来たようだしのう……一旦撤退させてもらう》
 その言葉を聞き、匠海は隔離を解除、侵入者も強制ログアウトしたとのアナウンスを確認しほっと息を吐く。
 どうしてこのタイミングなのか。
 本当に、祖父があのようなことを?
 そんなことはない、絶対にありえない。
 絶対というものほど信用してはならないものはないが、それでも祖父に限っては絶対にそんなことはしない、と思いたかった。
 事実、匠海の祖父は今回の犯人ではなかったし真犯人は魔法使いではなく魔術師であるのはログを漁れば簡単に見つかることである。だがいつもはそれなりに冷静さを欠かない匠海だったが、今回は冷静さを少し欠いていた。
 それは「ハッキングによって命を落とすかもしれない」という事実を認識させられたからか。それともログを漁るという結論に至る前に身内が侵入してきたからなのか。
 冷静さを欠いていてはまともに仕事もできない。
 ここは一旦頭を冷やすべきだろう。
 世界樹との接続を解除し、席を立とうとしたちょうどその時。
 緊急通信で応援要請が届く。
 応援要請は周りの仲間たちにも送られているから無視してもよかったが、あのようなことが発生した矢先、リーダーが無視をするわけにはいかないだろう。
 仕方ない、と応援要請に了解し、指定されたエリアに移動する。
《匠海! こいつはやばいぞ!》
 侵入者はかなり深くまで侵入していた。
 匠海が駆けつけたエリアは生半可な侵入者では侵入することすらかなわない極秘エリアに差し掛かる部分であった。
 よほどの腕の持ち主か、と対処に当たる。
 相手の動きに応じてツールを使い追い詰めようとするが相手の対応はそれよりも速い。インプラントチップを埋め込んでいるのではないかと思いたくなるような反応速度に焦りが隠せない。
 いや、違う。
 埋め込んでいるのではないか、ではない。埋め込んでいるに違いない。しかも自作のパッチを当てて反応速度を格段に向上させている。そうとしか思えない動きだった。
 どこかで情報が漏れたのではない、情報を漏らし、技術を提供している人間がいる。さもなければこの侵入者は情報関連のそれなりの立場にいる人間ということになる。
 これが本当なら事態としてはかなり深刻なものになるだろう。何とかして、確保しなけば。
 同時に、理解する。祖父に対する疑惑は濡れ衣だったのだと。インプラントチップを埋め込んでいるなら、インプラントチップの存在を知っているのなら、それを攻撃する方法くらい分かっているだろうし持っているだろう。実際、匠海は用意しているのだ。ただ、無用の長物として使っていないだけで。否、人命を危険にさらすこのウィルスを簡単に使ってはいけないという倫理観から使っていない。
 降りかかるウィルスをツールで防御、無効化しながら侵入者に追随する。
 数人がかりで事態に当たっているにもかかわらず、世界樹の防壁は一枚、また一枚と突破されていく。これ以上突破されれば世界樹の基幹システムに到達され、システム全体を破壊されるか、それとも全顧客、全データを流出させられるか、侵入者にとってより取り見取りの選択肢が提示されてしまう。
 匠海、と声が響く。
 いつ準備したのか、インプラントチップを攻撃するためのウィルスの展開ボタンに邪魔にならない程度にもたれかかった妖精が声をかけてきたのだ。
『このままじゃ世界樹が暴かれちゃうよ?』
 分かっている。
『相手の力量も分かってるんでしょ?』
 分かっている。
『しかも相手は仲間を殺そうとした』
 分かっている。
『そして匠海には仇を討つための実力もプログラムもある』
 分かっている!
『それならどうして、それを使わないの?』
 使っていいわけがないだろう!
 人の命を奪うかもしれないものを、いくら仲間が同じ目に遭ったからといってやすやすと使っていいはずがない。それが、その倫理観が妖精にはないのか。
 また一枚、防壁が突破される。
 自分たちの力だけで食い止めることが難しいことは、悔しいが認めるしかなかった。
 ここまでの腕を持つハッカーなら、インプラントチップを埋め込み、改造しているこのハッカーなら、世界樹の監視官として採用されてもいいのではないだろうか。
 もっとも、相手にその気があるというのであれば、だが。
 使うしかないのか。それしか方法は残されていないのか。
 残された防壁はあとわずか。この辺りで決着をつけないと後のリカバリーが面倒になる。
『使わないの?』
 妖精が再び問いかける。
 一瞬、使ってもいいのかという思いが頭をよぎる。
 使う理由はある。試してみたいという欲求がないというのは嘘になる。
 しかし使ってはいけない。
 殺人者になりたくないというのではない。人間として、行ってはいけない行為なのだ。
 法を犯すからではない。法を犯すことになるからやってはいけないというのはそもそも世界樹にハッキングを仕掛けるという重罪を犯している立場上言えるはずがない。倫理観を考えると、人の命を脅かすということはその人間を否定することであり拒絶することなのだ。いくら相手が重罪人でも、人間が人間を拒絶してこの世界から退場させることは行ってはいけない、と一応は思う。だからといって死刑制度を否定するつもりはないという矛盾を抱えているが。
 妖精がインプラントチップを攻撃するためのウィルスの展開ボタンを挑発するように撫でている。
『使わないの?』
 匠海が触れれば即発動するだろうこのボタン、妖精が触った程度では勝手に起動しないらしい。
 ゆっくりと、匠海は片手を挙げた。
 妖精から見ればボタンに向かって手を伸ばし、起動しようとしていると認識できるだろう。
 実際、匠海の手はボタンに向かって伸び、そして――
『ふみゃっ!?』
 ボタンの隣から妖精が弾き飛ばされた。
「人間なめんな」
 ボタンを押すかのように見えていた匠海の手が、デコピンをお見舞いした形に変わっている。
『うぅ……』
 匠海に弾かれた額? 頭? を押さえながら、妖精がふらふらと彼の視線と重なるように浮上する。
『デコピンは痛いです』
「だったら軽々しく人の命を奪うような選択肢を提示するな」
『……戦争で敵の命を考える方がおかしいと思うけど』
 今の時代、戦争とは基本的に「人が死なない」ものだと認識されている。もし死ぬことがあってもそれは事故か何かで、意図的に「殺す」といったことが起こることは考えにくい。
 だから、考えてはいけないのだ。戦争で「相手を殺す」ということを。
「殺してはいけない。思い知らさなければいけないんだ。そうしなければ、無益な戦争はいつまでも続く」
 うまく言えなかったが、伝えるべきところは伝えたつもりだった。
 今の戦争で人は死んではいけない。過去に続いていた負の連鎖を蘇らせてはいけない。
 はっきりと、そう伝えると。
 突然、妖精の態度が変わった。
 今までの少しふざけたような、悪戯好きの妖精ピクシーのような言動から女神かと思わせるまじめな態度で匠海を見る。
『その言葉を待っていました』
「……何?」
 瞬時に言葉の意味を理解することができず、聞き返す。
『戦争で意図的に人を殺してはいけない、殺せば無益な争いは続く。それを理解しているのであれば、私はそれに応えましょう』
 そう言い、妖精は両手を広げた。
『セキュリティシステム全権限移行。緊急排除モード展開』
「な……」
 緊急排除モードは展開すると「監視官であろうが関係なく無差別に世界樹にアクセスしている全ての人間のオーグギア停止及び通報を行う」最終手段ともいえるもの。当然、セキュリティレベルも最高で、展開するには上長クラスの人間複数から許可を得なければいけないほど厳重に管理されたものである。だが、それが仇となって一刻を争う緊急時にそんな時間はない許可なんて取っていられるか、とぼやく仲間もいる。自分も無用の長物ではないかと思うこともある。
 そんな、無用の長物と思っていた緊急排除モードを、妖精は展開したというのか。
 システム音声が館内に響き渡る。
『全監視官に伝えます。30秒以内に世界樹のアクセスを完全に解除してください。解除していなかった場合、オーグギアが停止し、自動的にサイバー警察に通報されます』
 その通知を受け取った仲間が次々とアクセスを解除していく。
 匠海もシステム音声に従い、世界樹へのアクセスを解除する。
 解除する直前、妖精はちゃっかり何か聞かれたときの言い訳を匠海に伝授する。
『匠海、緊急排除モードの発動はどうしても許可を待てなくて緊急措置としてバックドアを開いた、って言えば大丈夫だと思うから』
 大丈夫「だと思う」にいささかの不安が残るが、確かに匠海はハッカーとしての実力もある。緊急時にやむを得ずバックドアを開いた、ならお咎めはあったとしても軽いものだろう。
 侵入者を排除するために逆に世界樹にハッキングを仕掛けることは社内規定で禁止されていない。
 分かった、と匠海は頷いた。
 その直後に世界樹内部で何が起こったのかを知る者はいない。
 ただ、一瞬、世界樹が停止し、それによって世界樹を基盤としていた全世界のシステムに影響を与えた、ということだけニュースで知ることができた。影響を与えたと言っても経済界で秒刻みの更新が行われる価格変動にラグが生じた、とか医療界隈でも幸い、死者は出なかったものの医療器具にほんの少しのラグが生じたとか、そういう程度だったが。
 そんな程度だったためサイバー警察も大きな影響を受けることなくこの時世界樹に不正アクセスしていた全てのハッカーを摘発することができた。
 だが、世界樹が一瞬とはいえ停止したのは事実で、ニュースで大々的に報道され、運営の上層部の人間が一部更迭されたり減給されたりしたらしい。
 匠海をはじめとする監視官はどうなったかというと、世界樹が停止する直前に全員がアクセス解除したというログが残っていたため何があったかと追及されたが、ここは結束の固い監視官たち、全員が匠海の入れ知恵で「予想以上にハイレベルな侵入者に、上長の許可を得る余裕がなかったため匠海が独断でバックドアを開き、緊急排除モードを展開した」と証言していた。もちろん、バックドアを開いたという話は妖精の入れ知恵であり、実際匠海は何もしていない。セキュリティレベルが最高の緊急排除モードに誰にも知られずにバックドアを仕掛けるなどできるならとっくの昔にやっているだろう。
 そのため匠海は特別に追及され、仲間たちの証言は事実で、緊急措置としてバックドアを開かなければ世界樹の基幹の破壊、もしくは各種極秘データの流出は食い止められなかった、と何度も訴えることとなった。それに納得したのか、最終的な上層部からの命令は「今回の件に関して、監視官、特に永瀬 匠海の処分は追って指示する」というものになり、暫くお咎めなし、ということになった。
 これならまだ暫く妖精の存在は明らかにならないだろう。
 少し安心し、匠海はドリンクコーナーでコーヒーを手に息を吐いた。
「……で、どういうことだ?」
 自分の左肩を見るように首を傾け、匠海が問いかける。
『どういうことって?』
 左肩にちょこんと腰かけていたのは妖精。今、世界樹に有線接続していないのに、だ。
「世界樹に有線接続していないとお前は見えなかったはずだが」
『有線じゃないとだめってことはないよ? そもそも匠海たちは有線で世界樹の監視をしてるけどそれは単純にリソースの節約とかセキュリティの問題なだけでハッカーは別に世界樹に有線で接続してるわけじゃないでしょ?』
「つまり無線でも接続していたら現れることは可能ってわけか? それならなんで今頃」
 確かに監視時は有線にしていたが別に有線でなければいけないということはない。有線で監視しているのは妖精の言う通りリソースやセキュリティの問題があるだけだ。そのため監視官は職場にいる間は無線でも世界樹に常時アクセスしており、緊急時に対応できるようにしている。
 しかし、無線下でも現れることができるというのなら何故今までそうしなかったのか。
 妖精がそれは、と答える。
『本当に信用できるかどうか観察していたのと、プログラムを組んでいた、っていうのがあるの。オーグギアに、世界樹にアクセスしているときに限り私を表示させるためのアプリね』
「それを勝手にインストールしたわけだ。お前、本当はウィルスじゃないのか」
 無断で入れるとはいい度胸をしている。と思ったもののそんなに悪い気分ではない。
 妖精に信頼された証ならそれはそれでいいかもしれない。
「……まあ、何が目的かは知らんが」
『こっちは信用しているのに信用されてないって、傷つくなー』
 ぷくっと膨れてみせる妖精に、匠海は一瞬既視感を覚えるもすぐにそれを振り払う。
「ま、とにかく運営にバレないようにしておけよ」
『分かってる』
 そんな会話を交わし、ブースに戻る。
「それじゃ頑張りますか……」
『頑張って! 何かあったら私も手伝うから』
「……またシステム落とされたら大変だからな。お前の手伝いがいらない程度に頑張るさ」
 世界樹に有線接続する。見慣れたARマップが表示されるが、油断はできない。
 あの時のような、インプラントチップを攻撃してくるハッカーがこの先出ないとは限らない。注意は最大に、警戒も最高レベルに。
 二度とあの仲間のような悲惨な目に遭う仲間が出ないように、妖精がシステムを掌握して世界樹を一瞬でもダウンさせる事態に陥らないように。
 他に何かあるとすればあの件に関しての処分がどのようなものになるのか。謹慎か数か月の減給で済めばいいが、と思いながらも匠海は侵入者を発見、排除した。

 

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